原文:
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イエスの死後の復活は、イエスの神性を示す究極的で明確な証拠である。ほとんどの人がこの話を知っており、使徒言行録にもまとめられている。イエスは磔にされて死に、埋葬されて冥界に行った。そして3日後、彼は死からよみがえったのだ。この後イエスは天へ昇り、全能の父なる神の右に座っているという。
イエスが自分が死からよみがえったことを証明する方法は一つしかない。人々の前に現れることだ。そのため、聖書のいくつかの箇所には、イエスが死後に現れたという描写がある。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書のいずれにも、復活したイエスの出現について触れた節があるのだ。
コリント人への第一の手紙の15:3には、それらの節の要約が載っている。作者のパウロが書くところによると、
私が最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り、3日目によみがえったこと、ケバに現れ、次に12人に現れたことである。そののち、500人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数は今なお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に全ての人たちに現れ、そして最後に、いわば月足らずに生まれたような私にも、現れたのである。
この節で確認できるように、イエスは数百人の前に、何度も現れている。
パウロのように
これらの聖書の節を見ると疑問が浮かんでくる。なぜイエスは出現するのをやめてしまったのだろう。なぜ今日、イエスは現れないのだろう。
これは本当に奇妙なことだ。パウロは明らかに復活したキリストと個人的に会ったことで、恩恵を受けている。個人的な訪問によって、パウロは復活が真実であることを自分の目で確認できたし、イエスに質問をすることもできたのだ。
ならばなぜ、イエスはちょうどパウロに対してはそうしたように、全ての人のところに現れ、自分が復活したことを証明しないのだろう。イエスが今夜あなたの家の台所に現れ、あなたと個人的に話をしてはならない理由は何もない。そしてこのことについて考えてみると、イエスは私たち全員のところに現れる必要がある。パウロがイエスが復活したことを知るためには、復活したイエスと会う必要があったのなら、なぜあなたはそうではないのだ。
次のような理由から、これは重大な質問と言える。
・私たちは聖書から、イエスが数百人の前に現れたと学んだ
・ここから、イエスは人々の前に現れてもいいと思っていることが分かる。そうすることで、例えば、人々の自由意思が損なわれたりはしないのだ。
・イエスは全能で時間を超越した存在なのだから、歴史を通して全ての人のところに現れることも、簡単にできるはずである。
・もしイエスが全ての人のところに現れれば、信じられないほどの助けになるはずだ。そうすれば私たち全員が、イエスは神であり復活したのだということを、自らの経験に基づいて知ることができる。もしパウロ(そして聖書に出てくる他の全ての人々)が、イエスの復活を知るのにイエスと会う必要があったなら、あなたや私もそうではないだろうか。
・しかし私たちは、この2000年、イエスは誰の前にも姿を現していないことを知っている。
言い換えると、イエスがあなたのところに現れることができない理由はないし、そうすべきいくつかの理由もあるのだ。
イエスに祈ると
イエスにこのように祈るとどうなるだろう、「イエス様、パウロや500人の信徒の前に現れたように私たちの前に現れてください、そのようなことがあれば、私たちはあなたの復活が事実であることを知ることができます。あなたの名において祈ります。アーメン」。実際、イエスは聖書でこのように約束しているのだ。
マタイ福音書7:7
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見出すであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。全て求める者は得、捜す者は見出し、門をたたく者は開けてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える物があろうか。魚を求めるのに、へびを与えるものがあろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものをくださらないことがあろうか。
ヨハネ福音書14:14
私の名によって願うことは、何でも叶えてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でも私の名によって願うならば、私はそれを叶えてあげよう。
マタイ福音書 18:19
また、よく言っておく。もしあなたがたのうちの二人が、どんな願い事についても地上で心を合わせるならば、天にいます私の父はそれを叶えてくださるだろう。二人または三人が、私の名によって集まっているところには、私もその中にいるのである。
イエスは本当に私たちの中にいる。とすれば、彼はすでにまさにここにいるはずなのだ。にもかかわらず、物理的に出現してもらうようイエスに祈っても、何も起きないのである。
イエスは何かが起きると約束したにもかかわらず、何も起きないというのは奇妙なことではないだろうか。イエスはすでに私たちのそばにいて、全能である彼は簡単に出現できると思われるにもかかわらず、何も起きないというのは奇妙なことではないだろうか。
お分かりだと思うがこの状況では、偶然によって祈りが「叶えられる」ということはない。この祈りが叶えられるためには、イエスが実際にはっきりした形で出現しなければならない。
このことを考えると、聖書のパウロの話は誤りだと理解できるのではないだろうか。法廷で証言を検証するときのように、パウロの話について考えてみよう。コリント人への手紙においてパウロが語ったことは、まったく前例のないことだ。致命傷を受け、三日間死んでいた人間が生き返ったというのだから。さらに、
・その話が真実だという証拠はまったくない
・パウロの主張の代わりになるような他の説明はいくつも考えられる。パウロは話をでっち上げたのかもしれないし、幻覚や夢を見てイエスと会ったと思い込んだのかもしれないし、イエスの名を騙る偽物に会ったのかもしれない。
・加えて、今日の誰もイエスに会っていない。パウロに対してしたのと同じように、現代人の前に現れることは、全能の存在であるイエスにとっては簡単なことだと思われるにもかかわらずだ。
このような根拠があれば合理的な人間は、聖書でパウロが語った物語は本当のことではないと、自動的に結論づけるはずだ。パウロの話を支持する証拠も、信じるべき理由も0であり、パウロには嘘をつく動機があり、代わりの説明には事欠かないのだ。聖書という書物は他の部分も嘘だらけであるという事実もある。さらに付け加えれば、イエスは簡単に地上に再出現し、パウロの話が本当であることを証明できるはずだ。イエスは祈りに答えると約束しておきながら、祈っても再出現はしてくれないのである。これではパウロの話は真実ではないと結論づけるしかない。全ての証拠は、復活の物語は神話であり決してそれ以上のものではないことを告げている。
復活の物語が明らかに神話であるということは、イエス(実在の人物だとして)は神ではなく、普通の人間だったということだ。明らかに復活など起きなかったのだ。
そしてそのことから、神そのものも空想であることが分かる。もし神が本当に存在し、この地球で何かをやっているなら、イエスのような偽物が神を名乗ることを許すはずがないのである。