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コモンズの悲劇 全訳

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コモンズの悲劇 全訳

コモンズの悲劇というのは有名な言葉ですが、元の論文を読んだことがある方は意外に少ないのではないでしょうか。ということで、英論文コモンズの悲劇(The Tragedy of the Commons)の全訳を載せます。大学のレポートの参考にしようがコピペしようが結構ですが、訳が間違っていても管理人は一切の責任を負いません。なおコモンズを和訳すると共有地なので、「共有地の悲劇」という題でも良かったのですが、「コモンズの悲劇」のほうが通りがいいのでこちらの題としました。

 
コモンズの悲劇 

 将来の核戦争に関する思慮深い論文の中でJ.B WiesnerとH.F.Yorkはこのように結論付けた。「軍拡競争を行う双方は、増大する軍事力と減少する安全というジレンマに陥っている。専門家としての我々の判断によると、このジレンマに技術的な解決策はない。巨大な力を握るものが解決策を科学や技術のみに求めるなら、結果として状況はさらに悪くなるだろう。」
この論文の主題は核戦争や安全保障ではないが、到達した結論は同じだ。すなわち、問題に関する技術的な解決策は存在しないのである。専門、一般を問わず全ての科学雑誌における論争には、暗黙かつほとんど普遍的な前提がある。議論の対象になっている問題には技術的な解決策があるという前提だ。技術的な解決策というのは、自然科学的な技術の変更だけを要求し、人間の価値判断や道徳にはほとんどないしまったく変更を要求しないような解決策と定義できるだろう。

 現代においては技術的解決策は常に歓迎される。近年悲観的な予言が外れたので、期待されるような技術的解決は不可能だと断言するには勇気がいる。WiesnerとYorkはこの勇気を示した。科学雑誌に、その問題に対する答えを自然科学の中に探しても無駄だという趣旨の論文を投稿したのだ。彼らはこのような慎重な言葉を使って自分たちの主張を言い表した、「これは我々が専門家として考察した結果到達した結論である」。この論文での彼らの主張自体が正しかったかはたいした問題ではない。重要なのは彼らが、人類が抱える問題の中には「技術で解決できない問題」に分類されるべきものがあるという考えを提示し、それらのうちひとつについての定義と論評を行ったことである。

 「技術で解決できない問題」という分類が無意味なものではないことは簡単に示せる。tick-tack-toe(訳注:五目並べのような遊び)のゲームを思い出して、「どうすればtick-tack-toeで勝てるのか」という問題について考えてみよう。よく知られていることだが、相手がゲームを完璧に理解してる場合、勝つことは不可能だ。別の言い方をすると、この問題に「技術的解決策」はない。勝てるのは「勝つ」という言葉に根本的な意味を与えたときのみだ。つまり、相手を殴ったり、ゲームで不正をしたりすればいいのだ。しかし直感で分かるだろうが、これらの行為は何らかの形でゲームを放棄するものだ。

 「技術で解決できない問題」に分類される問題はいくつもある。ここでの論点は昔から提唱されている人口問題がその一つであるということだ。この問題がどのように捉えられているかについては少し補足が必要だ。人口問題について憂慮する人々のほとんどは、彼らが現在享受している既得権益を捨てることなく、過剰人口の害を防ぐ方法を探しているといっていいだろう。彼らは海で作物を作るなり、新種の小麦を作るなりすれば問題は解決すると思っているのだ。私はここで、彼らが求めるような解決策は決して見つからないことを示すつもりである。技術によってtick-tack-toeで勝つことは出来ないのと同じく、人口問題は技術では解決できないのだ。

何を最大化すべきか
 人口は元々、マルサスの言葉を借りれば「幾何級数的」に、我々の言葉で言えば指数関数的に増加する。有限の世界でこれが起こるとその帰結として、一人当たりのモノの量が減少することになる。我々の世界は有限だろうか。

 世界は無限である、ないし、少なくとも有限であるという証拠はないという見方を擁護する者もいるだろう。しかし我々が数世代後に直面するであろう問題については、人類にとっての世界は有限であると推定しておかなければ、悲惨な結果が待っているのは明らかだ。ここで予測されている近未来の技術水準では、宇宙に逃げることはできないのである。

 有限の世界は有限の人口しか養うことが出来ない。そのため、人口増加は最終的には0にならなければならない。この状態にたどり着いたとき、人類はどのような状況にあるだろうか。はっきり言えば、ベンサムが言う「最大多数の最大幸福」が実現しているのだろうか。

 実現しないだろう。これには二つの理由がある。一つ目は理論的なもので、二つ以上の変数を同時に最大化するのは数学的に不可能だということだ。このことはvon NeumannとMorgensternによって定式化されたが、基本は偏微分方程式に基づくものであり、少なくともD'alembertまでさかのぼることが出来る。

 二つ目の理由は生物学的事実に基づくものだ。全ての生物は生きるためにエネルギーを必要とする。エネルギーは二つの目的のために使用される。生命の維持と仕事である。人間の場合、生命の維持のためには一日1600キロカロリーが必要となる。これは維持カロリーと呼ばれる。対して、ただ生きているということ以外の全ての行動は仕事と定義され、仕事カロリーによって行われるものである。仕事カロリーは私たちが一般に仕事と呼ぶ行為のみに使われるのではなく、水泳や車の運転から、音楽を演奏したり詩を書くことにいたる全ての娯楽のためにも使われる。もし我々の目標が人口の最大化ならば、何をしなければならないかは明らかだ。一人当たりの仕事カロリーをできるだけ0に近づけることである。美食も休暇もスポーツも文学も音楽も美術も、人口の最大化という目標の敵となる。わざわざ議論や証拠を持ち出さなくても、全ての人が人口の最大化は最大の幸福を産まないことに賛同するだろう。ベンサムの目標は達成不可能である。

 この結論は、問題はエネルギーの獲得であるという一般的な仮定に基づいたものだ。原子力の登場はこの仮定にいくらかの疑問を投げかけるかもしれない。しかし、エネルギーの供給が無限であったとしても、人口増加は解決不可能な問題を生み出す。J.H Fremlinが機知に富む言い方で述べたように、エネルギーの獲得という問題がエネルギーの浪費という問題に変わるのだ。その分析の算術的な指標は逆転しているように見えるが、ベンサムの目標に到達することは不可能だ。

 そのため、最適人口は最大人口より少ない人口ということになる。最適の定義は非常に困難であり、私が知る限りこの問題に真剣に取り組んだ者はいない。一貫した満足できる解答に到達するには、おそらく一世代以上かかる困難な分析的研究と、さらに困難な説得を必要とするだろう。

 我々が目指すのは一人当たりの幸福の最大化だ。しかし、幸福とは何だろう。ある人にとってそれは自然環境であり、ある人にとってはスキー場だ。ある人にとっては鴨猟ができる入り江であり、ある人にとっては農地だ。よく言われるように、一つの幸福を他の幸福と比べることは、幸福に比較基準がないために不可能だ。比較基準がないものは比較できないのである。

 理論的にはこれは正しい。しかし現実の生活においては比較基準がないものでも比較できる。必要なのは、判断基準と重み付けのシステムだけである。ある種にとって、小さく隠れやすいことと、大きく強いことのどちらが良いのだろう。自然選択が比較基準のないものを比較可能にしてくれる。変異の価値を自然が重み付けすることで、妥協が成立するのである。

 人間もこれを真似すればよい。人間が無意識のうちにこれを行っているのは疑いないのだ。暗黙の判断が明るみになったときに議論が起こる。これからの問題は、納得できる重み付けの理論を作り出すことだ。相乗効果、非線形的変動、将来の度外視などは問題をややこしくするが、解決不可能にするわけではない。

 直感的なレベルでかまわないから、現時点でこの実際的な問題を解決している文化集団は存在するだろうか。ある単純な事実から存在しないことが分かる。現在地球上で繁栄している人間集団の中で、人口増加率が0である、または0であったことがあるような集団は存在しないのだ。最適点を見つけた人々の人口はそこにすぐ到達し、その後の人口増加率は0になるはずなのだ。

 もちろん、人口増加は人口が最適点より少ないことによるものと解釈することも出来る。しかし、現在の地球でもっとも急速に人口が増加している集団は、あらゆる合理的な指標から見て、もっとも悲惨な状態にある集団である。この関係は、人口増加は人口が最適点に達していないからだという楽観的な想定に、疑問を投げかけるものだ。

 最適人口に向かって前進したいなら、人口統計学におけるAdam Smithの亡霊を追い出さなければならない。経済に関して、国富論(1776年)は「見えざる手」という概念を一般に広めた。これは自己利益にしか関心がない個人の行動により、社会が改善されるという考えである。Adam Smithはこれを普遍の真理だとは主張しなかったし、おそらく彼の追従者もそうだった。しかし彼が、個人にとって最良の判断は社会全体にとっても最良の判断であるという、支配的な考えに貢献したのは確かだ。もしこの想定が正しいのなら、生殖における自由放任という現在の政策は正当化できるだろう。もし正しくないなら、私たちは個人の自由についてどれを守るべきかを再検討しなければならない。

コモンズにおける自由の悲劇
 人口調整における見えざる手への最初の反証は、1883年にアマチュア数学者のWilliam Forster Lloydが出したあまり知られていないパンフレットに見られる。私たちは哲学者のWhiteheadの「悲劇」という言葉の用法に習い、これを「コモンズの悲劇」と呼ぶことにする。Whiteheadによると、「悲劇の本質は不幸にあるのではない。それは物事の無慈悲な働きの厳粛さの中に存在するのだ」。彼はさらにこう続ける。「運命のこの必然性は、実際に不幸を内在する出来事により、人間の生活のなかにのみ表れる。逃げることが無益であることが明らかになるのはそれによってだからである。」

 コモンズの悲劇はこのようにして起こる。誰でも利用できる放牧地があったとしよう。この場合、放牧者全員が可能な限り多くの牛をコモンズで飼育しようとすることが、予想される。このような制度は長年大体満足できる形で維持されてきたが、それは戦争や病気によって人と家畜の数が土地の潜在能力より下に抑えられていたからである。しかし審判の日はやってきた。つまり、長年望まれてきた社会的安定が実現されたのである。このとき、コモンズというものの生来の論理が、無慈悲に悲劇を生み出すことになる。

 合理的行為者としてそれぞれの放牧者は、自らの利益を最大にしようとする。明白な形であれ暗黙であれ、あるいは自覚的であれ非自覚的であれ、彼は「家畜を一頭増やすことの便益はなんだろうか」と自問するのだ。この場合の便益には正の要素と負の要素がある。

1、正の要素は、家畜を一頭増やすことの効用である。放牧者は追加の家畜を売って得られる利益の全てを受け取れるので、正の便益は+1に近い。

2、負の要素は、一頭の家畜の追加による過放牧の害である。しかし、過放牧の悪影響は放牧者全員に分配されるので、家畜を増やす決断をした一人ひとりが受ける負の便益は-1を放牧者の数で割った値となる。

 二つの便益を合計すると合理的な放牧者は、自分にとって家畜を増やすのが唯一の道だと結論付けるだろう。そしてさらに一頭増やすのが… しかし、これこそがコモンズを使用する全ての合理的放牧者が到達する結論である。限られたコモンズの中で放牧者全員が、自分の家畜を際限なく増やすことを強要するシステムの中に埋め込まれているというわけだ。コモンズにおける自由を信じる社会の中で、全員が自己利益の最大化を追求する先に待っているものは、崩壊である。コモンズにおける自由は全員にとっての破滅を招くのだ。

 これを陳腐な議論だと言う人もいるかもしれない。そんなもんさ! 確かにある意味、それは数千年前から分かっていたことだったが、自然選択が心理的拒否を後押ししているのだ。個人は自分の行動によって自分が属する社会に、悪影響が生じていることを否定することによって、個人的な利益を得ることが出来る。教育によってこの誤りに対抗することは出来るが、世代交代という無情な現象があるので、この知識は常に補充されなければならない。

 マサチューセッツ州のレオミンスターで数年前に起きた単純な事件は、知識がどれだけ劣化しやすいかを我々に示してくれた。クリスマスのショッピングシーズンの間、ダウンタウンのパーキングメーターが、「クリスマスが終わるまで開けるな。市長と市議会提供の無料駐車スペース」というタグがついたビニール袋で覆われたのだ。言い換えると、ただでさえ少ない駐車スペースの需要超過を予測した市の指導者たちは、コモンズのシステムを再設定することにしたわけだ。(彼らはこの退廃的行為によって失うより多くの票を得たのではないかと、私たちは疑っている。)

 大まかな意味では、コモンズの論理ははるか昔、おそらく農業の発見や所有権の発明のときから理解されていただろう。しかしそれはたいてい、十分な一般化が行われないような特殊例によって理解されてきた。西部開拓時代になっても、国有地を借りた牛飼いはどっちつかずの理解しか示さなかった。過放牧によって汚染と雑草の優占がおきている場所での頭数増加を認めるよう、連邦政府の役人に絶えず圧力をかけていたのだ。同じように、世界の海ではコモンズの哲学による生存競争が発生し、魚が乱獲されている。海洋国家たちは「海の自由」という決まり文句に対して、無批判に迎合しているのだ。「海の資源は無限である」という信念を公言している彼らは、魚およびクジラを次から次へと絶滅寸前の状態に追いやっている。

 国立公園はコモンズの悲劇の帰結に関する、もう一つの例を示している。今のところ、国立公園は全員に際限なく開放されている。公園の広さ自体は限られている。Yosemite Valleyは一つしかないのだ。対して訪れる人の数は際限なく増加するようだ。結果として公園を訪れる者が期待する美観は急速に汚染されていく。率直に言うと、公園をコモンズのように扱うのを止めなければ、公園は誰にとっても価値がない場所に成り果てるだろう。

 どうすればいいのだろう。方法はいくつかある。まず公園を私有財産として売ることが出来る。公共財産として維持するが、立ち入りを制限することも出来る。この場合、オークション、くじ、先着順などの手段で立ち入る権利を割り当てることになる。これらの方法全てに対して異論があることと思う。しかし私たちはどれかを選ぶか、国立公園と呼ばれるコモンズが破壊されるのを容認するしかない。
 
汚染
 ひるがえって、汚染の問題にもコモンズの悲劇は再登場する。これはコモンズから何かを持っていくという問題ではなく、何かー排水、化学物質、放射性物質、廃熱、危険で有害なガス、景観を損なう広告などーをコモンズに持ち込むという問題である。効用計算については前と同じだ。合理的な人間はコモンズに汚染物質をそのまま捨てるコストは、それを自分で浄化するコストより低いと判断するのだ。これは全員に当てはまることなので、我々が独立した合理的経済人として振舞う限り、我々は自分の住処の破壊を強要するシステムから逃れられない。

 コモンズの悲劇の一部は私有財産制か構造的に似通った別の制度によって、回避できるかもしれない。しかし我々を取り巻く空気や水に境を設けるのは容易ではない。そのためコモンズが万人にとってのゴミ箱として使われるという問題に関しては、強制的な法律や、汚染物をそのまま排出するより処理を行うほうが割安になるような税制などの、別の対策が必要になるだろう。この問題に関しての我々の解決策はまったく進歩していない。実際我々特有の私有財産という概念は、有用な資源の枯渇の防止には役立っているが、汚染についてはむしろ促進している。川沿いにある農場の管理人ー川の真ん中までが彼の土地とされるーは、自分に目の前を流れる川を汚染する権利はないということを理解しないのが普通である。法律はいつも時代遅れであり、コモンズのこの新しい側面に対応できるような手の込んだ修正を必要とする。

 汚染の問題は人口問題の帰結である。アメリカの原野に一人で暮らす開拓者がいくら廃棄物を出そうが、たいした問題ではない。「流れる水は10マイルで勝手にきれいになる」というのは筆者の祖父の言葉である。祖父が子供だったころには、この神話もだいたい正しかったといえる。そんなに多くの人間がいなかったからである。しかし人口が密集してくると、自然の化学的・生物学的な循環過程に過大な負担がかかり、財産権の再定義が必要になるのだ。

規制をどう制度化するか
 汚染問題を人口過密の作用として捉える分析は、道徳というあまり認知されていない原理については触れていない。すなわち、行動の道徳性というのは、現行の制度の状態の作用によるものなのだ。開拓時代ならコモンズをゴミ箱として使っても、公衆に害を及ぼすことはなかっただろう。公衆などというものはなかったのだから当然だ。しかし大都市では同じ行動が許容できないものとなる。150年前の開拓民は、バイソンを撃って舌だけを切り取って夕食に使い、残りを捨てることができた。彼がこのような無駄を出したところで、たいした問題はなかったのだ。現在ではバイソンは数千頭しか残っていないので、我々はこのような振る舞いを許容できない。

 現在では、写真から行為の道徳性を判断しようとしても無益だ。ゾウを殺したり草原に火を放ったりすることが誰かの害になっているかは、その行動が行われている場所の全体的なシステムを理解しない限り、判断できないのだ。中国の諺に「百聞は一見にしかず」というのがあるが、それを立証するには1000の言葉が必要だ。エコロジストや改革者にとって、写真によって手っ取り早く説得するという誘惑は大きいだろう。しかし議論の本質は写真では表現できず、言葉によって提示されなければならないのだ。

 そのような道徳はシステムに依存するもので、過去の倫理とはかけ離れている。「…するなかれ」というのが伝統的な倫理による指示であり、特定の状況での許可はそこには含まれていない。我々の社会の法律は古代の道徳を踏襲しており、複雑で、混雑した、変わりやすい世界の統治に適していない。一連の解決策として、制定法より行政法を増やすことがある。裏庭でごみを燃やしたり排ガス規制なしに車を走らせたりすることについて、それを行ってもよい状況を全て記載するのは実質的に不可能なので、詳細については役所に委任するのだ。つまりは行政法だが、これは古来からのもっともな理由ー誰が監視者を監視するんだーによって、抵抗を受けてきた。John Adamsは我々は「人治国家でなく法治国家」を持たなければならない、と述べている。全体的なシステムの中での行為の道徳性を判断しようとする行政官などというものは、特に堕落しがちであり、法治国家ではなく人治国家を作り出す。

 禁止を法制化するのは容易(だが必ずしもその必要はない)が、節制はどう法制化すればいいのだろう。経験的には行政法の調節が最良の方法であることが示唆されている。「誰が監視者を監視するんだ」という感情によって行政法の適用を拒否するなら、我々は不必要に可能性を制限することになるだろう。このフレーズは避けられないような恐るべき危険についての警告としてのみ、記憶されるべきものだ。今我々が直面している難問は、管理者の誠実さを維持するための矯正的なフィードバックを発明することである。管理者と矯正的フィードバックのために必要とされる権威を正当化する方法を発見しなければならない。
 
生殖の自由は容認できない
 コモンズの悲劇は別の点でも人口問題と関わってくる。もし世界が生存競争の論理だけで動いているなら、家族が何人の子供をもつべきかなどということが問題になることはなかっただろう。産む子供の数が多すぎる親は、より少ない子孫を残すことになるのであって、より多くではない。これは子供一人ひとりに十分な世話をすることが出来なくなるからである。David Lackらはそのような負のフィードバックによって、鳥の繁殖が調整されていることを発見した。しかし人間は鳥とは違うのであって、少なくともここ数千年はそのように行動したことがない。

 もし人間の家族がそれ自身の資源のみに依存しているなら、多産はその系統に「罰」を与えることになる。つまり軽率な親をもつ子供は餓死するということだ。この場合、家族の出産を制御することは公衆の関心事になりえないだろう。しかし我々の社会は福祉国家であり、その結果コモンズの悲劇の別の側面と対峙することになる。

 福祉国家の中で、我々は多産によって勢力の拡張を行おうとする、家族、宗教、民族、階級にどう対処したら言いのだろう。生殖の自由と万人がコモンズへの権利をもつという信条が結びつけば、世界は悲劇的な方向に向かうことになる。

 不幸なことに、これはまさに国連が目指している動きなのだ。1967年、約30の国がこのような声明に賛同した、「世界人権宣言は家族を社会の自然で基礎的な単位と位置づけている。また家族の大きさに関する選択および決定は家族自身によるものでなくてはならず、それ以外の者が行ってはならない。」

 この権利の妥当性を否定するというのはつらいものだ。17世紀のマサチューセッツ州セイレムで魔女の実在を否定するような不安感を覚える人もいるだろう。現在のリベラル派にとって、国連を批判するのはタブーのようになっている。国連は「最後のそして最良の希望」であり、批判するのは保守派に仲間入りをするようなものだという感覚がある。しかし、Robert Louis Stevensonの「仲間が隠蔽する欠点は、敵の最良の武器」という言葉を忘れないで置こう。真実を重視するなら、我々は世界人権宣言の妥当性を否定しなければならない。たとえそれが国連が推進するものだとしても。また我々はKingsley Davisと共に、世界家族計画が同じような悲劇的な理想を追求していることを暴かなければならない。

良心は自己消滅する
 長い目で見ると、良心に訴えることで人間の繁殖を制御できるという考えは、誤りである。Charls Galton Darwinは祖父の偉大な書の出版百周年記念のスピーチで、このことを述べた。この主張は単純にダーウィニズムからくるものだ。

 人はそれぞれ違う。繁殖を控えるようにという訴えに対し、他の人より強く応じる人々がいることは疑いない。次の世代では訴えに強く反応する人の子孫より、訴えを無視して多くの子供をつくる人々の子孫のほうが割合が大きくなるだろう。違いは世代を重ねるごとにますます強くなる。

 C.G.Darwinによると、「繁殖するという本能がこのように発達するには数百世代を要するだろうが、もしそうなれば自然は復讐を行うことになる。Homo contrasipens(訳注:繁殖しないヒトの意)は絶滅し、Homo progenitives(訳注:繁殖するヒトの意)が取って代わるのだ。」

 この論では、良心や子供を持つ欲求はだいたい親によって決まると仮定している。そのような態度が生殖細胞によって伝達されるのであれ、A.J.Lotkaの言葉を借りれば非肉体的に伝達されるのであれ、結果は同じだ(一つ目の可能性のみならず二つ目の可能性も否定する人に言っておきたいが、もし子供が親から学ばないものだとしたら、教育とは何のためにあるのだ)。この論は人口問題について言われてきたものだが、自らの遺伝的成功のためにコモンズを搾取する人間に対して、社会が良心に訴えようとするような状況全てに通用する。そのような訴えは、良心を種から消滅させる選択システムの作動を引き起こすのだ。

良心の病理
 良心に対する訴えの長期的な悪影響だけでも、それを否定するに十分だが、実は短期的に見ても深刻な悪影響がある。コモンズの搾取を「良心の名において」止めさせようとするとき、我々はそれを行う者に何を言うのだろう。また彼はそれをどう聞くのだろう。その瞬間だけでなく夜床についたときも、彼は我々の言葉だけでなく、気づかないうちに行われた非言語的コミュニケーションについても思い出すのではないだろうか。遅かれ早かれ、意識的であれ無意識であれ、彼は自分が相矛盾する二つのメッセージを受けたと感じるだろう。一つ目(これが本来伝えたいこと)は「我々が要求することをしないなら、我々はあなたを責任ある市民として行動していないと公的に非難する」というもので、二つ目(こちらは伝える意図がない)は、「我々が要求することをするなら、我々はあなたをみんながコモンズを搾取している脇でぼんやりしているうすのろとして、陰で非難する」というものだ。

その結果として全員が、Bateson言うところの「二律背反」に囚われる事になる。Batesonと同僚は、二律背反が統合失調症の原因になるということを示す説得力のある事例を提示した。二律背反が常にこれほど有害な結果を引き起こすわけではないが、この状態が精神的な健康に対して危険であるのは確かだ。Nitezsheによると、「有害な良心は病気の一種である」。

 他者の良心を呼び起こそうとすることは、正当な領域を超えて自らの支配を及ぼそうとする者にとっては魅惑的である。指導者というものは最もこの誘惑に屈しやすい。過去において労働組合の賃上げ要求を自主的に止めさせたり、鉄鋼会社に価格についての自主的な基準を尊重させることに失敗した大統領がいただろうか。少なくとも私の記憶にはない。そのような状況で用いられるレトリックは、非協力者に罪の意識を抱かせるためのものだ。

 数百年にわたり、罪の意識は有用であり文化的な生活に不可欠の要素であるとさえ、考えられてきた。現在のポストフロイト派の世界において、我々はそれを疑っている。

 Paul Goodmanが現代的な観点から述べたところによると、「罪の意識、知性、政策、同情から善が生まれることはない。罪の意識は対象ではなく彼ら自身の不安に対して作用する。せめて関係に対して作用するなら有用かもしれないが」。

 不安の帰結を予想するのにプロの心理学者である必要はない。西洋世界は二世紀にも渡った恐ろしい性の暗黒時代から、やっと抜け出したところだ。暗黒時代は部分的には禁止法によって維持されてきたが、不安を生み出すような教育機構の働きのほうが大きかったと思われる。Alex Comfortはこの物語をThe Anxiety Markersに詳述している。愉快な話ではない。

 証明は難しいが、不安の結果は特定の見方からすれば望ましいかもしれない。我々が問うべき大きな問題は、心理学的病理を引き起こすような技術を政策的に使うべきなのかということだ。最近では親の責任という言葉を耳にすることが多い。この言葉は産児制限を目指す組織の標語に組み込まれていることもある。国内(ないし世界)の親に責任を教え込む手段として、大規模なプロパガンダを推奨する人々もいる。しかし良心という言葉の意味は何だろう。実際の賞罰規定がないまま責任という言葉を使うことは、コモンズにいる自由な人間に対して、自分の利益に反する行動を取れという脅しを行うことに他ならないのではないだろうか。責任は実際の賞罰のまがいものに過ぎない。それは何かを無意味にしようとする試みだ。

 仮に責任という言葉を使うなら、Charls Frankelが使ったような意味であるべきだ。この哲学者によると「責任」とは、「社会的解決のためのはっきりした制度」だ。Frankedが言っているのは社会的解決であり、プロパガンダではないことに留意されたい。

相互に支持される相互強制
 責任を生み出すような社会制度は、ある種の強制を作り出すような制度だ。銀行強盗について考えてみよう。銀行がコモンズであるかのように銀行からカネをとっていくことだ。このような行動はどのように阻止されているだろうか。単に言語によって責任感に訴えることではないのは確かだ。プロパガンダに頼るのではなく、Flankelに従って銀行はコモンズではないことを強調し、また銀行がコモンズにならないようなはっきりした社会制度を作ろうとするはずだ。つまりそれによって強盗の自由を破壊するのだ。

 銀行強盗の道徳性について判断するのは簡単だろう。我々はこの行為を完全に禁止することを受け入れているからだ。我々は例外を認めることなく喜んで「銀行強盗をしてはならない」と言う。しかし節度も強制によって作られるものだ。税は強制のよい手段であると言える。ダウンタウンの買い物客に駐車スペースの利用について節度を守らせるために、短い時間についてはパーキングメーターが、長い時間については罰金制度が導入されている。好きなだけ車を止め続けることを禁止する必要はない。それを行うのがだんだん高くつくようにするだけでいいのだ。提示すべきものは禁止ではなく、注意深く調整された選択肢だ。マディソン街(訳注:広告業の中心地)の住人はこれを迫害と呼ぶだろうが、私は誠実さという観点から強制という言葉を推奨する。

 現在のリベラル派のほとんどは強制を忌まわしい言葉とみなしているが、永遠にそうである必要はない。弁明の必要も恥も感じずにこの言葉を使い続ければ、そのような忌まわしさは消えるものだ。多くの人にとって強制という言葉は、遠くにいる無責任な官僚の横暴な指示を連想させるものだろう。しかし別にそうである必要はないのだ。私が推奨する唯一の強制は、それによる影響を受ける人々の大多数が相互に支持するような相互強制だ。

 強制を相互に支持するということは、それを楽しんだり楽しんだふりをする必要があるということを意味しない。誰が税金を楽しむだろう。我々は皆不平をもらしている。しかし私たちは任意課税が不道徳な行為を促進することを理解しているので、強制課税を受け入れているのだ。我々は税制をつくり(しぶしぶ)支持している。そして他の強制的な制度についても、コモンズの恐怖を回避するために受け入れているのだ。

 コモンズの代案は完全に正しくて推奨されるようなものである必要はない。土地やほかのモノについて、我々が選んだ代案は法的な相続制度と結びついた私有財産制度だった。このシステムは完全だろうか。遺伝学を学んだ者として、私はそうは思わない。もし個人が相続する財産に差異があるべきであるとすれば、所有物の量は生物学的な能力と完全な相関を見せるはずだ。つまり財産や権力の管理人としてより適した者が、より多くを受け取るのだ。しかし遺伝的な乗り換えは、私たちの法的な相続制度の暗黙の前提である「父と子は似ている」という教義に、絶えず冷笑を浴びせている。愚か者が多額の財産を相続し、信用金庫からの利子だけで生活することができるのだ。私有財産と相続という法制度は不完全であることを認めなくてはならない。この制度が存続しているのは、今のところこれよりよいシステムを発明した者がいないからだ。コモンズの代案を熟考するのはあまりに恐ろしい。不正義は完全な破滅よりはましである。

 改革派と現状維持派の戦争状態の奇妙さの一つとして、それが無思慮なダブルスタンダードに支配されているということがある。改革派の法案が提出されると、反対者が嬉々として欠陥を発見し、普通は廃案になる。Kingsley Davisが発見したように、現状維持の信奉者は全員一致でなければ改革は不可能とほのめかすことが多いが、それは歴史的事実に反している。私に理解できるところでは、提唱された改革の自動的な拒否は二つの無意識の想定に基づくものだ。①現状維持は完全である ②私たちが直面している選択肢は、改革か何もしないかである。もし改革案が不完全であれば、私たちは何もせず完全な案が出るまで待つべきだ。

 しかし実際には、何もしないということは不可能だ。数千年にわたってやってきたことであれ、何らかの行動には違いないのだ。そしてそれは悪も生み出すのである。現状維持が行動の一種であることを理解すれば、今までに分かっているその利点と欠点を、提唱された改革の予想される利点および欠点と比較することが出来る。なお予想というのは不確実なものなので、改革案についてはその分を差し引く必要はある。このような比較を基準とすれば、完全なシステム以外は認められないという不毛な考えから離れ、合理的な決定を下すことができるだろう。

必要を自覚する
 人口問題のもっとも簡潔な要約はこのようなものだ。コモンズの存在を正当化しうる可能性があるのは、人口密度が低いときだけである。人口が増えれば、コモンズからその性質を捨て去っていかなければならない。

 まず我々はコモンズから食料を集めるのをやめて、農地を囲い込み、牧草地、猟場、漁場への立ち入りを制限した。世界的に見るとこれらの制限は、いまだ完了していない。

 いくらか後になって、我々はコモンズを廃棄物を捨てる場所として使うのも、止めるべきであることに気づいた。家庭ごみの投棄の禁止は西洋では広く受け入れられているが、車、工場、殺虫剤、肥料、核廃棄物のコモンズへの放出禁止では苦戦している。

 次の段階、すなわち快不快の問題に対するコモンズの悪については、まだ萌芽の状態だ。公共空間での宣伝はほとんど規制されていない。買い物をする場所は、中身のない音で溢れている。政府が数十億ドルを投じて開発した超音速旅客機は、一人を西海岸から東海岸へ従来より3時間早く移動させるために、5万人に騒音被害を与える。広告業者は、ラジオ、テレビ、景観を汚染する。快不快の問題についてコモンズを非合法化するまでの道のりは長そうだ。これは我々のピューリタン的な伝統が、快は悪であり不快を耐え忍ぶことは善であるとしているからだろうか。

 コモンズの囲い込みが起きるごとに、誰かの個人的自由が侵害される。はるか昔に起きた侵害については、それで何かを失った人はもういなくなっているので、受け入れられる。我々が強硬に反対するのは新しく提案された侵害である。「自由」と「権利」を叫ぶ声は、そこらじゅうから聞こえる。しかし「自由」が意味するものは何だろう。強盗を禁止する法律を通すことで人はより自由になるのであって、より不自由になるのではない。コモンズの論理にとらわれた人間が唯一もつ自由は、全てを廃墟にすることだ。対して相互強制の必要を理解すれば、それ以外のゴールを追及する自由を得ることができるのだ。Hegelの言葉だったと思うが、「自由とは必要不可欠なものを受け入れることである」。

 必要不可欠なもののうち、我々が新たに認識しなければならない最も重要なことは、生殖におけるコモンズの廃止である。技術的解決策は、それがどんなものであれ、我々を過剰人口の惨禍から救ってくれはしない。生殖の自由は全てを破壊する。我々は今のところ、難しい決断を避けるため、良心や親の責任についてのプロパガンダを行う誘惑に駆られている。このような誘惑は阻止されなければならない。良心に働きかけることを目的とした訴えは、長期的には全ての良心を自然選択によって消滅させる。そして短期的には、不安を増大させる。

 別のより貴重な自由を守り育てていくための唯一の方法は、今すぐに生殖の自由を放棄することである。「自由とは必要不可欠なものを受け入れることである」-そして生殖の自由の廃止が必要不可欠なものであることを明らかにするという使命は、教育にかかっている。そうすることによってのみ、我々はこの種のコモンズの悲劇を終わらせることが出来る。
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