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神の不在証明30 神の性差別主義

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神の不在証明30 神の性差別主義

原文:http://godisimaginary.com/i30.htm

 神が空想であることを確認したいなら、一つ簡単な方法がある。「全知」で「愛」であるはずの神が、愚かな純然たる悪党として振舞っていることを示す聖書の箇所を探せばいいのだ。その明らかな矛盾は、神が空想であることの証明となるだろう。

 聖書にはそのような箇所が数多くあるが、あなたが女性であれば、神の性差別主義が一番の証明となるだろう。

 辞書は女性嫌悪者を「女性を憎む者」と定義している。また性差別については、

1、性に基づく差別。特に女性への差別
2、性的な役割分担を促進するような、態度、社会状況、行動

 と定義している。


 神は性差別主義者だろうか。証拠を見てみよう。コリント人への第一の手紙の14章にはこんな箇所がある。
 婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから律法が命じているように、服従すべきである。もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。

 これはまったく明快な一節であるように見える。そして聖書を書いたのは神だ。イザヤ書の40:8で神は、主の言葉は永遠であると書き、ペテロの第一の手紙でも同じことを書いている。つまり神自身の永遠の言葉によると、婦人にとって教会で話すのは恥ずべきことである。

 コリント人への第一の手紙11章のこの部分は重要だ。
 しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。全ての男の頭はキリストであり、キリストの頭は神である。祈りをしたり預言をしたりする時、頭にものをかぶる男は、その頭をはずかしめる者である。祈りをしたり預言をしたりする時、頭に覆いをかけていない女は、その頭をはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。もし女が覆いをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったり、そったりするのが女にとって恥ずべきことであるなら、覆いをかけるべきである。 男は神の形であり栄光であるから、頭に物をかぶるべきではない。女はまた、男の光栄である。なぜなら、女が男から出たのだからである。また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。それだから女は、頭に権威の印をかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。
 聖書にこんなことが書かれていることは信じがたいだろう。しかし聖書を開くと分かるとおり、確かにこう書いてある。

 これはテモテ人への第一の手紙の2章である。
 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠を着けたり、高価な着物を着たりしてはならない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言い表している女に似つかわしい。女は静かにしていて、万事につけ従順に教えを学ぶが良い。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、私は許さない。むしろ、静かにしているべきである。

 「女が教えたり、男の上に立ったりすることを私は許さない。むしろ、静かにしているべきである」、これほど単刀直入に言われては、神が言いたいことを理解しないわけにはいくまい。

 考えてみると、神は聖書の最初から、この種の性差別を貫いていることに気づくだろう。これは創世記の17章の神の台詞である。
 あなたと後の子孫とは共に代々、私の契約を守らなければならない。あなたがたのうち男子は皆割礼を受けなければならない。これは私とあなたがた及び後の子孫との契約であって、あなたがたの守るべきものである。

 女性との契約については、神は何の言及もしていない。

 聖書には他にも多くの例が見つかる。

・マタイ福音書の25:1でイエスは、「そこで天国は、十人の乙女がそれぞれ明かりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている」と述べている

・ヨハネ福音書の20:17でイエスはマリアに、「私に触ってはいけない。私はまだ父のみもとに上っていないのだから」と、女性に触られることが不適切であるかのような言葉を投げかけている。ちなみに数節後ではトマスがイエスに触れているのだが、イエスはそれについては文句を言っていない。

・創世記の3章で神は出産の痛みを大きくし、イブ及び全ての女性を数千年にわたって罰している。対してアダムに対してはそのような痛みを与えていない。

・エペソ人への手紙の5:22にはこのような箇所がある。「妻たるものよ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であって、自らは、体なる教会の救主であられるように、夫は妻の頭である。そして教会がキリストに仕えるように、妻も全てのことにおいて、夫に仕えるべきである」。

・ペテロの第一の手紙3:7には、「夫たるものよ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、命の恵みを共々に受け継ぐものとして、尊びなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためである」、とある。

・ヨハネの第一の手紙2:13でヨハネは、「父たちよ。あなた方に書き送るのは、あなたがたが、初めからいます方を知ったからである。若者たちよ(訳注:英文ではyoung men)。あなたがたに書き送ったのは、あなた方が強い者であり、神の言があなたがたに宿り、そして、あなた方が悪しきものに打ち勝ったからである。子供たちよ。あなたがたに書き送ったのは、あなたがたが父を知ったからである」と書いているが、女性に対しては何の言及もない。

 聖書にはまた、明らかな女性嫌悪の証拠が見て取れる。

・イエスの弟子に女性はいるだろうか。いない。
・黙示録において救済される女性はいるだろうか。いない。
・聖書を構成する書のうち、女性が書いたものはあるだろうか。ない。

 神は女性に関わることを嫌がっているように見える。

 聖書の女性嫌悪が数百年にわたって社会に影響してきたことを頭において欲しい。例えば合衆国憲法では、もともと女性の権利が否定されていた。女性は1920年まで投票できなかったし、それは数十年にわたる社会運動の末にやっと認められたものだ。

 これは非常に奇妙な状況だと思わないだろうか。聖書は神の永遠の言葉とされているにも関わらず、現代の人間は神の性差別を完全に拒絶している。現代人は神をまったく無視しているのだ。

・私たちは女性を大企業のCEOにする。
・私たちは政府の要職に女性を起用する。
・私たちは女性を大学の学長に任命する。
・私たちは女性が教職につくことを認めている
・私たちは女性が教会で話すことを認めている。

 ここでの矛盾は明らかで、まったく曖昧さがない。私たちは聖書の神の法をまっこうから否定しているのだ。神とその「永遠の言葉」が完全に間違いだと知っているからである。私たちは神が空想だと知っているのだ。

 もし神が「神の言葉」を書き、出版したのなら、なぜその本はこれほど多くの問題(証明5を参照)を抱えているのだろう。

・なぜ聖書のそれぞれのページは、それを読むとその賢明さと洞察に驚愕するようなものではないのだろう。
・なぜ聖書はその代わりに、これほど多くの戯言や偏見を含んでいるのだろう。
・なぜキリスト教は聖書について、正当化、合理化、弁解、説明を絶えず試みるのだろう。この例について言えば、現代のキリスト教徒は、明らかに女性を嫌悪している神の弁護を試みている。

 偏見のない人間なら、聖書が性差別的である理由を簡単に理解できる。聖書は「全知」で「愛」である神によって書かれたのではないからだ。聖書は重度の性差別主義者である原始的な人間が書いたのだ。アフガニスタンのような原始的な国家の男が、女をどう扱っているかを見ればいい。聖書を書いたのはそういう男たちだ。

 そして私たちは、キリスト教徒も非キリスト教徒が似通っていることを知っている。現代社会が性差別を完全に拒絶しているのは、聖書の性差別が完全に矛盾しており誤っていることを、私たち皆が知っているからだ。これは聖書の奴隷制についての箇所を見たときと同じだ。キリスト教徒と非キリスト教徒は、これらの領域については聖書の教えを拒絶するということでは似通っている。なぜならその教えが明らかに誤りだからである。奇妙なことに、キリスト教徒は聖書のこれらの箇所を完全に拒絶しているにも関わらず、聖書のほかの部分については「神の言葉」だと主張している。彼らの目は妄想によってふさがれており、明らかな矛盾を見ることが出来ないでいるのだ。

 妄想を一度捨て去れば、事実は明らかだ。神は空想である。
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