原文:http://godisimaginary.com/i9.htm
あなたが信仰をもつ人間で、癌にかかったとしよう。あなたは治癒を神に祈り、手術と化学療法を受けた。その結果、癌は縮小していった。
何が治癒につながったのだろう。医学だろうか、それとも神だろうか?
言い換えると、私たちが祈りを行うとき、神が介入するかどうかを知る方法は、あるのだろうか?
この例で問題なのは、曖昧さが存在することだ。キリスト教徒なら神が祈りに応えたのだと信じるだろうが、ただの偶然ということもあり得るのである。
全ての科学的証拠は、それが偶然であることを明確に示している。祈りの効力についての科学的な研究では、常に祈りには効果がないということが示されているのだ。科学的証拠は全ての「応えられた祈り」は偶然に過ぎないことを、示している。
どうすればこの問題を解決できるだろう。キリスト教徒が信じるように神が祈りに応えているのだろうか、それともそれは科学が示すように偶然に過ぎないのだろうか。
この問いに答えるには、曖昧さを除去しなくてはならない。「応えられた祈り」が偶然によっては起こりえない状況を作り、何が起きるかを見ればいいのだ。
曖昧さを除去するには、偶然では起こりえないようなことが起こるように祈れば良い。例えばある一人の人間の癌が治るように祈る代わりに、全ての癌が明日地球上から消滅するように祈ればいいのだ。この祈りがかなえられたとすれば、原因は一つしか考えられない。神が天から地上に舞い降りてきて、はっきりした形で奇跡を起こしたのだ。
このような曖昧さのない実験を行って分かるのは、神は決して曖昧さのない祈りに応えないということだ。イエスは聖書の多くの箇所で、自分は祈りに応えるーそれが不可能なものであってもーと述べている。しかし、イエスに対してこのような試験を行うと、イエスは約束を守っていないことが分かる。
私たちに分かるのは、神は決して不可能な祈りには応えないことだ。たとえその祈りが明らかに応えるに値するものであってもだ。例えば
・神に車を10分ほど宙に浮かべてほしいと祈っても、そんなことは起きない。そう祈る理由が、車輪の下敷きになっている交通事故の被害者を助けるためだったとしても。
・スーパーマンのように空を飛びたいと神に祈っても、そんなことは起きない。祈りがかなえられれば、火事でビルの十階に取り残された子供を助けられる場合でも。
・地下室に1億ドルの現金を出現させるように神に祈っても、そんなことは起きない。例えあなたがその全額を、有意義な慈善事業に寄付するつもりだったとしても。
・神に切断された手足を治してくれるよう祈っても、そんなことは起きない。あなたの祈りがどんなに真摯なものだったとしても。
これらの祈りが、決して応えられることがないのは確実だ。もし応えられることがあれば、夕刊にスーパーマンのように空を飛ぶ人の写真が載っているだろう。私たちは切断された手足が再び生えてくるところを目撃するだろう。キリスト教の慈善団体は常に十分な資金を得ることになるだろうし、毎年1000万人の子供が飢え死にすることもなくなるだろう。
これらの曖昧さのない祈りにより、神/イエスは実際には祈りに応えていないことが分かる。正しいのは科学的な証拠のほうだったのだ。「応えられた祈り」は、その時々の偶然に過ぎないのだ。神は空想であり、「神が祈りに応える」という考えは幻想である。