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キリスト教学校で禁じられていた7つの言葉

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キリスト教学校で禁じられていた7つの言葉

宗教ネタですが、今回はちょっと趣向を変えて、キリスト教の学校で教育されたが今は無神論者になっている人が書いた文章を紹介します。内容的にはこの人が通っていた学校の、しょうもない非合理的な校則についての話です。まあ宗教家が教育なんかやると、ろくなことになりませんね。イスラム国の支配地域でも一応学校があるそうですが、何を教えてることやら。

原文:http://www.patheos.com/blogs/leavingfundamentalism/2015/02/04/cool-not-and-five-other-ridiculous-words-my-christian-school-tried-to-ban/
 
 私が通っていたキリスト教学校には様々なルールがあった。私は当時でもその全てを知っていたわけではない(覚え切れた人などいなかったと思う)。ルールを破った罰を受けて初めて、そんなものがあったことに気づくことも多かった。聖書を文字通り信じる者にありがちだが、学校を取り仕切っている人々は言葉に生死を左右する力が宿る(箴言 18:21)と信じていた。そのため私たちが発する言葉は、微細に渡って監視されていた。学校ではオーウェルの小説に出てくるような思想統制が行われており、言語規制はその一環だったのだ。私たちが発することを許されなかった言葉をいくつか紹介しよう。


1,cool(涼しい、格好いい)
 誰かがcoolという言葉を発するのを聞くたびに、監視役の女性は私たちを怒鳴りつけた。「涼しい(cool)というのは、冷たいにつながり、冷たいというのは死につながります」。

 彼女の心温まる発言は多くあり、全てを覚えられなかったことが残念でならない。彼女のお気に入りのフレーズの1つ(生徒が無気力だったり、反抗的だったりしたときに使われた)は、「イエスの血を踏みつけるつもりですか」だった。そして彼女の不公平な態度を指摘するような愚か者がいたときの決めぜりふは、「もちろん、人生は不公平なものです。そうでなかったら、イエスはあなたのために死んだりせず、あなたは地獄に落ちることでしょう。」というものだった。

 彼女にとって不幸なことに、coolという言葉はあちこちで姿を現し、根絶することは不可能だった。ある日彼女の娘と話していて、この少女がある映画についてとてもcoolだったと興奮しながら言ったとき、私は気の毒な監視役がこの戦いに敗北したことに気づいたのだった。

 しかし監視役がcoolという言葉以上に嫌っていたのは、彼女が「coolの哲学」と呼んでいたものだった。私たちはカリスマ派(訳注:奇跡を重視するキリスト教の一派)の教会に所属していたのだが、この派の教会では祈りがしばしば熱狂的なものとなる。祈りの様子については、下の動画を見てみよう。

 さて彼女は「聖霊についていく」ための祈りに熱狂的でない子供は、祈りをcoolと思っていないのだということに気づいていた。そしてそれは正しかった。神を称えるのはcoolではなく、hotな行為なのだから!

2,not(…でない)
  誤解しないでほしいが、別にネガティブな言葉が全て禁止されていたわけではない。禁止されていたのは映画「ウェインズ・ワールド」に出てくる「何と素晴らしく、優れた発見 …ではないことか」という台詞だった。

 この台詞に関するルールがわざわざ作られたという事実だけでも、我が母校の驚くべき律法主義が理解できると思う。それから我々のほとんどは「ウェインズ・ワールド」を一度も見たことがなかったにもかかわらず、この表現が校内に蔓延していたという事実から、かの映画の文化的な影響力も同時に分かると思う。

 いつものように、監視役は丁寧に説明してくれた。「諷刺はウィットの中で最低のものであり、俗悪さの最上位に位置するものです。そしてそれは悪魔が用いるものです」。ああ、それはそう、 …じゃないね。

3,luck(幸運)
 我々の教会の牧師はluckという言葉はluciferから来ていると自信たっぷりに話してくれた。伝承によると、luciferはサタンが天国から追放される前の名前だということだった。だから誰かに対してgood luck(幸運を祈る)と言うことは、彼らに悪魔が取り憑くように祈っていることになるというのだ。

 もちろん辞書を開く気さえあれば、こんな話はナンセンスだと分かる。だがそもそも自分で事実を確認しようとするような人間が、キリスト教の学校に入学するはずがない。さらに言うと、もし私が辞書を引いてluckとluciferがまったく違う語源を持つことを発見しても、私の心は変わらなかっただろう。あのころの私ならこう思ったはずだ。「悪魔が辞書を書き換えている。自分の邪悪な企みがばれないようにするためだ。」

 ということで私たちはluckyではなく、blessed(祝福された)であった。

4,wicked(スラングで、「すごい」)
 今の若者の間でも使われているかは知らないが、1990年代のイングランドではwickedと言うスラングが大流行していた。アメリカ英語のthat's bad dude(こりゃ凄え)とほぼ同じ意味だ。私もこのスラングを至る所で耳にした。1996年にキリスト教学校に入学するまでは。

 それから1999年になって我が校の教育方針に疑問を抱き始めるまでの3年間、私はこの言葉を全く耳にしなかった。ちなみに再会したのは世俗のラジオ放送を聞くようになったからだ。ラジオのDJがこの言葉を口にするのを耳にしたとき、私はおもしろがって兄に電話をかけた。兄は私と違ってキリスト教の学校には行っておらず、比較的ノーマルな生活を送っていた。

私:今日ラジオのDJがwickedを使ってたよ。笑えるよね。1995年以降にあの表現を使った人を初めて見たよ。
兄:えっと、俺は今日の朝、使ったわけだが…  

 その年にキリスト教学校を離れ、普通の人とつきあうようになってやっと気づいた。wickedはまだ流行遅れになっていないことに。このスラングはそこら中でずっと使われていて、今まで耳にしなかったのは単に私が文化的に隔離された場所にいて、その囲いの中の人間が使わなかったからであることに。

 禁止された理由はもちろん、邪さ(wickedness)は悪魔から来るものであり、悪魔から来るものが良いものであるはずがないからだった。なお私が後から学んだところによると、wickedの語源はwicker(小枝)と共通であり、本来の意味は「ねじれた」だということである。luckの場合と同じく、我が校で教えられていた語源は大間違いだった。

5,6 dump(捨てる)とfancy(スラングで、「熱を上げる」)
 我々の監視役たちは時間を持て余してしたらしく、生徒全員を(もちろん我々の都合などお構いなしに)呼び出して、ありがたいお話をしてくださることがよくあった。この種のお話は全て、まともな知能がある人間なら一言で要約できるような内容だったが、彼らは30分以上かけてじっくりと講義するのが常だった。あるとき、彼らはこういう話をした。「弁当の中身を捨てるのは、そのために犠牲を払った親の気持ちを無にすることだ(ついでに、「あなたはイエスの血を踏みつけるつもりですか」が話の最後に付け足された。)

 この講演を行った人は話しているうちにこんなことを思いついた。恋愛関係の終わりを表現するのにdumpedを使うのは好ましくない。人間は神の似姿として作られた存在であり、dump(捨てる)ことはできないのだ。いつものことだが、我らが監視役は言葉を文字通りに受け取りすぎてしまったようだ(彼らが創造論者だったのもそのためかもしれないと、私はこの文を書きながら思っているところだ)。

 まあ監視役が言葉についてどう考えようと勝手だが、1つ奇妙なことがある。この学校はそもそも恋愛禁止だったのだ。校則の1つに6インチルールというのがあり、男女は話をするときでも互いに6インチ以上離れていなければならなかった。この校則は厳格に適用され、私の友人が女の子とキスをしているのを見つかったときはひどいことになったものだ。放課後、校舎の外での出来事だったにもかかわらず、監視役はこう命じた。「自らの罪を告白し、他の生徒に謝罪しなさい」。いったい監視役はどういう理由で、関係の終わりについての言葉を規制する必要を感じたのだろう? そもそも関係を始めることが禁止されていたのに。

 監視役たちは続けて、fancyという言葉を使うのも禁止した。これはイギリスのスラングで、誰かに熱を上げるという意味だ。たぶんfancyという言葉は他のもっと些細なことを表すのに使うので、取っておけと言うことだったのだろう。例えばクリームケーキ(fancyにはケーキという意味もある)とか、あるいはちゃんとした教育を受けたいという願いとか(fancyには気まぐれという意味もある)。

7,Okay(オーケー)
 私があの学校に入ってから一年ほど経ったとき、教会で一緒に過ごしたことがある友人が入学してきた。それまで彼女は普通の中等学校にいたのだが、私の勧めで転学したのだ。この件について、今でも私は自分を許すことができない。

 さて入学当日、監視役は通例通り、分厚い書類をめくりながら彼女に学校の規則と手続きについて説明した。新入生全員を脇に置いて、その話は延々と続いた。友人は少なくとも1つのことを理解したようだった。つまり、キリスト教の学校では礼儀正しさが不可欠だということだ。そのため彼女は監視役の話を注意深く聞きながら、規則的にokayと相づちを入れた。彼女としては自分が相手の話をちゃんと聞いて、理解もしていると言うことを伝えているつもりだったのだろう。

 なので、その後で起きたことは友人にとってショックだったと思う。監視役は話を終えるやいなや、友人の頭を殴りつけたのだ。「学内で何かを指示されたときの正しい返答はyesであり、okayではありません」、という怒号と共に。okayという言葉には熱意や敬意が感じられない。神があなたに何かを指示したとき、許される唯一の返答はyes lordであってokay lordではない、というのがその理由だった。監視役は神の代理人として、生徒の上に君臨している。生徒が彼らを尊敬することを学ばないなら、神を尊敬することも学べないだろうとされていたのだ。監視役に対する態度として認められているのは、迅速かつ熱狂的な服従のみだった。

 誰かが私に何かを頼んだとき、yesと反射的に答えてしまう癖は今でも抜けていない。そう答える前に相手の要求について検討する能力を身につけるため、現在努力中だ。
 
 
 

 


 
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