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無神論者は道徳を持てるか? 1

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無神論者は道徳を持てるか? 1

西洋では長い間、無神論者は「獣のような生活を送る不道徳な人間」の同義語として使われてきました。神が与える命令がなければ、人間は自分の欲望に従って生きるしかないだろうという理由からです。管理人もこの問題に興味があったので、無神論者は道徳を持てないという主張に対する反論文を訳してみました。ちなみに原文は2記事に分かれているので、訳文もそれにならっています。

原文:http://www.patheos.com/blogs/godlessindixie/2015/02/16/how-can-atheists-have-morals-part-one/

 誰かが私に「無神論者は道徳を持てるのか?」と質問してくるとき、その理由は2つ考えられる。
①至高の立法者なしで道徳的な判断を下すことができるのかを、純粋に知りたいと思っている。
②答えを求めているのではなく、私の世界観を攻撃するのを目的としている。
 質問者が何を意図しているかによって、答えは変わってくる。相手がどちらの動機で質問してきているかを判断できないのが悔しいところだ。両方という場合が多いとは思うが。おそらくこういう質問をする人間は内心では自分の信仰に疑問を抱いており、それが確かに真理であることを確認しないではいられないのだろう。

攻撃を目的として質問してくる人へ
 ②の理由で質問してくる人は、超自然的存在、来世、天国、地獄などを信じることなしに道徳的であることができるかを知りたいわけではない。彼らは実は質問をしたいわけではないのだ。彼らははじめから、何らかの神を信じることなしに(もちろん一番いいのは彼らの神を信じることだ)、道徳的であるのは不可能だと断定しているのだ。この偏見を裏付ける事実は存在しないが、とにかく次へ進もう。まず言いたいのが、このような質問もどきをするのは大変失礼であるということだ。質問の形を借りて、相手を不道徳な人間と呼んでいるに等しいのだから。自分が正しいという優越意識を持つ人間は、自分と同じ世界観を持たない人間の感情をしばしば軽視する。もしあなたが私の振る舞いを、自分のグループに属する人間のそれと比べて不道徳だと思うなら、それを指摘してほしい。そうでないなら、何が人を道徳的にするかについて考え直すべきだ。
 
 それから共産圏の独裁者の行動から、無神論者の不道徳性を指摘する人もいる。だが、特殊な個人の道徳性から集団全体の道徳性を判断することはできない。どのような集団にも異常者は存在するからだ(実のところ、精神異常者の多くはとても宗教的で、自らの宗教をつくることも多い)。独裁者になるような人間はある特定の特徴を持っており、そのことは宗教の有無とは関係ない。有神論者にも無神論者であれ、独裁者は大量殺人を行う可能性があるのだ。スターリン、ポルポト、毛沢東は無神論者だったが、クロムウェル、ルワンダの虐殺の指導者、ヒトラーは有神論者だった。独裁者に関する議論に意味は無い。道徳について議論するなら、個人の異常な行動ではなく集団の一般的な行動に焦点を当てるべきだ。どんな集団に属していても、普通の人間は民族浄化を企てたりしない。逆に言うと、そんなことを考える異常者は集団の道徳性を判断するためのサンプルには使えないのだ。

 統計的に見て、不信仰者が増えることはどのような結果を生むだろう。国際的に見て、もっとも犯罪が少ない国(北欧と日本)は最も非宗教的な国々だ。対して先進国で最も犯罪率が高い国(アメリカのことだ)は、同時に最も宗教的な国でもある。アメリカ国内でもこのパターンは当てはまる。犯罪率が最も低い州(ニューイングランドと北西部)は最も非宗教的な部類に入り、最も高い州は南部の「バイブルベルト」に存在する。立法者としての神を信じないことが不道徳な行動につながるなら、この結果は逆にならないとおかしいし、囚人に占める無神論者の数は人口比からの推定値より大きくなるはずだ。しかし現実には、囚人を調査したところによると、彼らのうち無神論者は0.5%以下しかいないことが分かった。無神論者が罪を逃れることに異常に長けているのでなければ、実際に彼らは犯罪行動を起こしにくいと考えるしかない。

道徳的相対主義という批判について
 他によくある批判として、超越的な立法者がいなければ道徳は主観的なものとなり、道徳的相対主義(何が正しいと感じるかは人それぞれで、絶対的な正しさは存在しないという立場)に陥る他ないというのがある。この主張の問題点は二つある。まず、有神論者の道徳は彼らが思っているような絶対的なものでは全くない。実際には全ての人間の道徳は主観的なものであり、それに気づいている人と気づいていない人がいるだけだ。善悪に対する自分の判断基準が不動の何かに根ざしていると考えた方が気が休まるかもしれないが、実際には宗教的な道徳でさえ長い間に大きく変化してきており、境界線が引かれる場所は昔と今ではまったく違っているのだ。そもそも善悪について神に決めてもらうとして、どの神の言葉を信じるのかを人間に判断できるはずもない。神や聖典によって善悪の基準は違うのだ。さらに言うと、たとえ同じ聖典を使う同じ宗教の中でも、性的嗜好、女性の地位、「正しい戦争」の概念などの基本的な事柄について、著しい不一致が存在する。キリスト教には41000の宗派が存在し、彼らは同じ神と聖典を信仰しているにも関わらず、同じ場所で祈ることさえできないのだ。

 無神論者の道徳には土台がないという批判についてさらに言っておくと、「良いことは神がそう決めたから良いのだ」という神の命令説ほど土台が怪しげな考え方は少ない。この考え方の最初の問題は、少なくとも人間は神と違って間違うことがあると考える限り、その「神の命令」が聞き間違えられたり、誤った解釈をされていないかを確認しなければならないことだ。「神が私に語りかけてきて、私たちにこうするように命じた」と主張する人を一人一人訪ねて回り、その主張の真偽を判断することなど不可能だ。

 次の問題は、この説に従えばそれがどんな邪悪な行為であれ、あらゆる行為を善、あるいは道徳的と呼ぶことができると言うことだ。あなたは自分の子供を生け贄として捧げるべきだろうか? 神の命令説の定義によると、神がそうしろと命じたのならそれは善だ。聖書にはアブラハムがこの命令を実行しようとしたことを、神が喜んだと記されている。それが神の栄光にかなう行為だったのだ。自分が住もうとしている土地の先住民は皆殺しにすべきだろうか? もちろん神の命令であれば、そうすることが正しい。実際神があなたに誰かを殺せと命じたとして、それに従わないのは神の命令への反抗であり「悪」だ。殺すのが「善」なのだ。この二つの例は私のでっち上げではなく、ちゃんと聖書に載っている。私は以前、キリスト教徒の間でのカナンの征服の物語(訳注:イスラエル人はカナンの地に侵攻し、先住民を皆殺しにした後でそこに定住したとされている)の扱いが、いかにこの種の「客観的正義」に立脚しているかを書いたことがある。カナン人への虐殺行為を擁護する者が、どの口で私を道徳相対主義者と呼ぶのだろうか? 少なくとも私はジェノサイドを擁護する無神論者に会ったことはないが、「神が命令したことだから」虐殺は正しかったと主張するキリスト教徒なら数十人知っている。これほど相対主義的な態度というのはそうそうない。

なぜあなたは我々を不道徳と見なすのか?
 しかし人々は依然として、無神論者は道徳相対主義的で不道徳と見なす。しかし何故だろう?明らかにこの判断は経験的な観察に基づくものではないのに、何故彼らはそう言い続けるのだろう? 理由は三つ考えられる。まず思いつくのが外国人嫌い、すなわち自分が属する集団の外にいる者は劣っていると見なす傾向に由来するという説だ。これは人間の自然的な傾向なので、自分の中にあるその種の考えについて見つめ直すのも有益だろう。自分が属する集団の外にいる人々と自分の共通点について考えることは、思考の枠を大きくしてくれる。

 次に考えられるのが、善は信仰者の内部で働く聖霊に由来するという説教の影響だ。人間は道徳的に弱く堕落しやすいもので、神によってのみ悪から救われるという話は私も何度も聞かされた。説教者はいつも、「心の中にイエスを住まわせなくてはならない」と言っていたものだ。この説によると、イスラム教徒やヒンドゥー教徒は間違った宗教を信じているので、無神論者と同じくらい道徳と縁が無いということになる。まあそう考えるのは勝手だが、あなたがサウジアラビアに生まれていれば、イスラム教とコーランを擁護し、キリスト教徒を不道徳と見なしていただろう。子供の頃に習ったことを、いつまでも無批判に受け入れるのはやめるべきだと思う。

 三つ目としてキリスト教護教論者の影響が考えられる。彼らは自分たちとは異なる世界観による攻撃から、信仰を守ろうとしている。このことについては以前にも書いたが、キリスト教徒は無神論に対して何か根源的な恐怖感を抱いているようだ。無神論は彼らの宗教の核である信仰そのものに対して疑問を投げかける思想なので、他のいかなるイデオロギーよりも脅威だと感じるのだ。別の宗教は少なくとも、信仰への信仰という点については一致しているからだ。無神論が宗教に関する他の信条と違うのは、それが信仰という考え自体を拒否し、信仰者が重要視するもの全てを破壊するという点だ。実のところ彼らは無神論が存在することそれ自体を脅威と見なしており、この思想を持つ者はキリスト教への批判をまったく口にしなくても、信仰を攻撃する危険な敵と見なす。信じられないという人は、このテキサスでの広告が原因で起きた騒ぎを見てほしい。この広告にキリスト教を非難するメッセージはまったく入っていなかったにもかかわらず、無神論者が存在するということ自体が物議を醸し出したのだ。あまりに扱いにくい問題であり、多くの人にとってそれを聴くこと自体が耐えがたいということらしい。それにしても無神論者が存在するだけで重大な脅威となるとは、信仰とはずいぶん脆いものらしい。

 純粋に質問の答えを知りたがっている人への回答に移る前に、攻撃を目的として「無神論者は道徳を持てるのか?」と質問してくる人にもう一つ言っておきたい。私が無神論者は道徳的に生きていると証明して見せたとして、それがあなたにとって意味があるだろうか? あなたは無神論は間違っていると固く信じ、無神論者の不道徳な行動がその証拠になると期待しているわけだ。無神論者が道徳的に振る舞っていれば、それをキリスト教に不利な証拠として認める勇気があなたにはあるのだろうか? 答えがイエスなら、あなたが自分の陣営の正しさを主張するためには、無神論者が実際に不道徳だと示すしかない。しかしそれが間違いであることはすでに述べた。ノーであれば、そもそも何のために質問してきたのかが分からず、議論を続ける意味がない。

 この質問を発する人の多くは聖書の矛盾などの不愉快な話題から、話をそらすためにそうするに過ぎないが、中には真剣に答えを知りたがっている人もいる。パート2ではそういう人のために、無神論者が他の人と同様に道徳を持てるのは何故かを説明していきたい。
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