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無神論者は道徳を持てるか? 2

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無神論者は道徳を持てるか? 2

前回の続きですが、今回は道徳はそもそも何に由来するのかという話です。

原文:http://www.patheos.com/blogs/godlessindixie/2015/02/17/how-can-atheists-have-morals-part-two-2/
無神論者は道徳を持つことができるのかを純粋に知りたくて質問してくる人のために、できるだけ分かりやすく説明していきたい。私は哲学者でも倫理学者でもないのでそれほどうまく説明できないだろうが、とにかく最善を尽くすつもりだ。問題は「無神論者」という言葉が、何を信じていないかを示すだけで、何を信じているかを表すものではないということだ。神を信じない人の中には、自然主義者もいれば超自然主義者もいるし、陰謀論者も懐疑論者もいる。さらに自然宗教の信奉者もいれば、ニューエイジ系の文化にかぶれている者もいるのだ。このリストは果てしなく続く。彼ら全員の道徳観についていちいち触れることは不可能なので、とにかく私が個人的に知っている無神論者の大半が合意してくれそうな答えを述べたいと思う。私の懐疑論者の知人の多くは、哲学的自然主義者だ。これは幽霊、妖怪、悪魔、魔術、妖精、聖霊、神などを信じるべき証拠は存在しないという立場を指す。つまり実在する世界だけが現実であり、それ以外のものは作り事であるとする立場だ。「至高存在からの指示を受けることがないこのような人々が、どのようにして道徳的な生活を送ることができるのか?」 というのが、あなたの質問の意図だと考えて話を進めさせていただく。
 まずあなたが何を聞いているのかを明確にしたい。あなたが「神を信じない人は道徳的な生活を送っているか?」と聞きたいなら、答えはイエスだ。神を信じない人も信じる人と同じく道徳の判断基準を持ち、それに従って生活している。ただその判断基準は必ずしも一致するとは限らない。例えばキリスト教の教えにおける「適切な」性的関係の定義は、非宗教的な考えに基づく定義に比べて遙かに狭い。だが、有害だったり搾取的だったりする性関係については、双方が共通して禁止している。どちらも人間関係において互いを尊重することを重視するし、正直さに価値を置いてごまかしを禁止する。私はキリスト教徒とも無神論者とも話したことがあるが、明らかにこれらの問題についての双方の価値観は共通している。他の多くの問題についても、どう実践するかは意見が分かれるかもしれないが、同じ事が言えるだろう。

 さらに、価値観について自然主義者(特にその中の人道主義者)と話してみれば、彼らが自分たちが信じる道徳について、とても熱心に語ってくれることが分かるだろう。彼らは道徳的な価値をとても大切に考えているし、意見が一致しない者に自分たちの道徳性を否定されれば不快に思う。懐疑主義者を批判する者が彼らの意見をちゃんと聞けば、互いの道徳には相違点より共通点の方がずっと多いことに気づくはずだ。私は両陣営が道徳について論争するとき、相手への敬意を欠く振る舞いが互いにあまりに多いことを残念に思う。相手の人格を攻撃せずに反対意見を述べることは十分可能なはずだ。互いが論争のやり方を学ぶ必要がある。

道徳の基礎
 無神論者が道徳を持ち、実際に道徳的な生活を送っていることが分かったら、次の疑問は「何故」、「どのように」だ。これらの質問に対する答えはとても単純だ。人間の道徳の根源は共感にあり、共感は進化の産物である。これが答えだ。共感能力を持つ生物種は反映し、持たない生物種は滅びる。これがそもそもの始まりであり、私たちの道徳の体系はその上に築かれた。共感だけで全てを説明できるわけではないが、それが全ての始まりなのだ。

 二つのグループに分かれた動物を想像してほしい。第一グループでは集団全体が集まって睡眠を取り、互いに毛繕いをする。第二グループでは全員がばらばらに行動する。どちらのグループが生き残り、次世代に遺伝子を残すだろうか? 明らかに互いを気にかけるグループの方だ。何世代か経てば、おそらく第二グループは消滅し、第一グループだけが繁栄しているだろう。ヒト科の動物の進化史にもこれを当てはめてみれば、団結することが私たちが進化の中で生き残るための基礎となったことが分かるだろう。これが歴史上全ての主要な宗教と哲学が、何らかの形で黄金律、すなわち「自分がしてほしいことを相手に対しても行え」を定めている理由だ。全ての道徳理論はここから始まり、人類は思想信条に関係なくこの価値観を共有してきた。無神論者であれ宗教の原理主義者であれ、相互に尊重し合うことを重視する点では変わらない。ただその方法について意見が異なるだけだ。

 だが、ヒトは共感や利他主義を示す唯一の生物種というわけではない。哺乳類のほとんどは自分の子を守るためなら命をかけるし、多くは集団内の他のメンバーのことを気にかけている。さらに自分の種に属さない相手に対してすら、共感や利他主義を示す動物もいる。イルカが人をサメから守ってくれたという例があるし、中国のテーマパークではベルーガが溺れた人を助けたのが観察されている。多くのよくできた実験や観察から、特に霊長類などの人に近い動物は、公正、公平、協力などの感覚を確かに持っていることが示されている(詳しくは、Frans de waalの「ボノボと無神論者(日本では未訳)」を読んでほしい)。ラットは自分が何の利益も得られなくても他の檻にいる仲間を助けようとするし、餌などの褒美を捨ててまで仲間を助けることを優先する。このことから分かるのは、共感や道徳が宗教の産物ではないことだ。多くの文化で見られる「私たちが正しい行動をとっているかを、空から観察している目に見えない聖霊」への信仰は、私たちが進化の中で得た「何をすべきで何をすべきでないか」の感覚から生まれたものか、少なくともそれによって強化されたものだ。

逸脱を防ぐためのなぜなぜ物語
 なぜ親は子供に、「寝ているときも起きているときも、サンタクロースがあなたを見守っている」という話をしたがるのか考えてみよう。この嘘が生き延びてきたのは、偽りだが役に立つからだ。もちろんいつも効き目があるわけではないが、子供が羽目を外すのを防ぐ助けにはなる。ちなみにクリスマスソングでは「見返りを求めずに良い行いをしなさい」と歌っているが、皮肉にもこの行事で実際に行われるのは、善行のご褒美を与えることだ。子供にとってはそうしたほうが励みになるに決まっているからだ。サンタが不可視であるという設定は、このキャラクターが持つ力をさらに大きくする。見えないものがいないことを確かめることはできないので、彼はどこにいても自分を見張っている可能性があることになるからだ。明らかに我々は、子供に望みの行動を取らせるためなら、嘘をつくことを躊躇しない。私たちは何であれ、役に立つならそれを使うのだ。私の考えでは、これが宗教の起源だ。

 だが成長するにつれて、このようなお伽噺は信じなくなる。つまり私が言いたいのは、成長に従って行動規範は内面化され、サンタが作り話だと分かった後でも、人はそれに従うのだということだ。一定の年齢に達すれば、ほとんどの人があんな脅しは馬鹿げていることに気づく。だが成長してからでさえ、私たちは見えない人物が自分の行動を見張っていて、善行には褒美を与え悪行には罰を与える、という話を聞かされる。天国と地獄の物語は、要するにクリスマスの発展系以外の何物でも無いのだ。多くの人が、「いずれにせよこういう話は保持しておく必要がある。なければ人間はどんな行動をとるか分からないから」と主張するだろう。彼らの考えによると、天国と地獄の話がなければ、人々はポルノ中毒になり、凶悪犯罪を行うようになるだろうというのだ。私はこれはナンセンスだと思う。自然選択でそう刻み込まれているからこそ、人々は善良であろうとするのだ。ほとんどの人は大抵の状況で、進化で形成された道徳律に従って動く。訓練が済んだ子供は自転車の補助輪を外しても転ばないように、人間の行動を監視する不可視の存在がいなくても、人々の道徳が破壊されることはない。ある男がいったように、「そろそろ子供っぽいことはやめる」べきなのだ。

 さてこの道徳は、至高の価値をもつ何かに根ざしたもので、かつ客観的だろうか? それは宇宙につながっているのだろうか? 答えはイエスでありノーでもある。共感は私たちの心という布の中に進化によって織り込まれた特性だが、私たちはその上に倫理体系を築き上げ、世界を住みやすい場所に変えることができる。人間は動物と同じような行動を取るが、それを全く違うレベルにまで引き上げることができるのだ。鳥は歌うが、ヒトは作曲する。ビーバーは丸太小屋を作るが、ヒトは高層ビルを建てる。イルカは負傷した仲間を何日も世話するが、ヒトは地球の反対側にある台風の被災地に、援助物資を送る。つまり私たちは発達した大脳新皮質を使うことで、複雑なシステムを生み出し、それによって他の動物がやっていることを、遙かに大規模に行うということだ。そして他の動物が群れのリーダーに従い、その下で役目を果たすだけなのに対し、私たちは法治国家と文明を創り出し、自分たちが属する種全体のために才能と資源を配分する。

人が創ったものだが価値はある
 私たちはルールと道徳の複雑なシステムと共に、社会を創り出す。それは社会的な構造物であり、細かな特徴は時代と場所によって異なる。それぞれの社会や文化の中で築かれた道徳のシステムは、構成員の生活を望ましいものにするために、彼ら自身の手で作られたものだ。強盗におびえることなく、安心して家で休みたいという欲求のために法律と警察機関が作られた。これらは人間の発明品だが、私たちの必要を満たしてくれるから存在し続けている。宗教によってそう命じられたからそうしたのではなく、自分たちの経験を元に、そうすれば世界がより良い場所になると考えてそうしたのだ。そして私たちは、そうすることがほとんどの人にとって良いと考えたから、法という概念を体系化した。私たちは他の動物に補食されるという恐怖の中で生きることを望まなかったから、自分たちの生活様式を作り替えた。結果として、そのような死に方をする可能性はどんどん低くなっていった。だから私たちの発達した道徳の感覚は、人工的なものでもあると言える。その体系を創ったのは私たち自身なのだから。一方でそれは、何百万年もの自然淘汰の過程で組み込まれた基本的な本能に根ざしたものでもある。つまり自然が創った土台の上に、社会が創り上げた道徳という建物が建つということだ。

 欠点は多いにせよ、アメリカの統治システムは宗教に基づかずに法体系を創るという社会実験の、最初かつ最も長く続いている例として見ることができる。今日の多くの人が信じていることとは異なり、合衆国憲法はいかなる宗教的な記述も含んでおらず、神についてはまったく言及していないのだ。世俗的な意図から創られたにもかかわらず、この憲法は2世紀以上を生き延びてきている。そのようなことが可能となったのは、啓蒙主義による道徳理論の発展が、支えとして神への恐れを必要としないところまで、倫理体系を進歩させたからだ。補助輪を外すべき時だったから、合衆国憲法の起草者たちはそうしたのだ。それは初めて自転車に乗るときのように恐ろしいことだったかもしれない。宗教による支えに慣れ親しんでいる人々は、未だに世俗社会という考えに対して戦いを挑み続けている。彼らはそんなものがうまくいくはずがないと信じているのだ。だが200年以上前に創られた法規範のもとで、社会はずっと機能し続けている。このことが持つ意味は大きい。その間に他の国も次々にこの例に従い、世俗的な政府を立ち上げてきた。そしてこれらの社会もちゃんと機能しているようだ。

 私たちは道徳的であるために神を必要としない。道徳の基盤は宗教が登場するずっと前から存在したし、道徳は将来においても宗教の助けなしに発展し続けるだろう。もう幼稚な行為をやめ、大人になるときなのだ。
 
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