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神の不在証明13 聖書と奴隷制

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神の不在証明13 聖書と奴隷制

原文:http://godisimaginary.com/i13.htm

 これらは神の奴隷制に対する姿勢を明確な形で示している、10の聖書の節である。

創世記 17:12
 あなたがたのうちの男子は皆代々、家に生まれた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でないものも、生まれて8日目に割礼を受けなければならない。あなたの家に生まれた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。
 この節で神は人間が人間を売買していることを理解しており、明らかにそのことを問題だとは思っていない。神は奴隷が奴隷でない者と同様に、割礼を受けることを望んでいるのだ。

出エジプト記 12:43
 主はモーセとアロンとに言われた、「過ぎ越しの祭りの定めは次の通りである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。しかし、おのおのが金で買い取った僕は、これに割礼を行って後、これを食べさせることができる。仮住まいの者と雇い人とは、これを食べてはならない」

 神はここでも、奴隷制というものを不快に感じておらず、奴隷だけを選んで特別な扱いをしている。

出エジプト記 21:2 
 あなたがヘブル人である奴隷を買うときは、六年の間仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。彼がもし独身で来たならば、独身で去らなければならない。もし妻を持っていたならば、その妻は彼と共に去らなければならない。奴隷がもし「私は、私の主人と、私の妻と子供を愛します。私は自由の身となって去ることを好みません。」と明言するならば、その主人は彼を神のもとに連れて行き、戸または柱のところに連れて行って、主人は、錐で彼の耳を刺し通さなければならない。そうすれば彼はいつまでもこれに仕えるであろう。

 ここで神は何をすれば生涯奴隷になるかを示しており、また奴隷を家族と引き離すことは完全に許容できると考えていることを示している。神はまた、奴隷の体に損傷を与えて烙印とすることを、完全に支持している。

出エジプト記  21:20
 もし人が杖をもって、自分の奴隷を打ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。しかし、彼がもし一日か二日生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。
 神は奴隷制を認めているだけでなく、それによって奴隷が死なない限り、奴隷を殴ってもかまわないとはっきり述べている。

出エジプト記 21:32
 牛がもし奴隷を突くならば、その主人に銀三十シケルを払わなければならない。また、その牛は石で撃ち殺されなければならない。
 神は奴隷制を認めているだけでなく、その価値についても定めている。銀三十シケルである。なお神はインフレについては考えていないようなので、神の言葉によれば3000年たった今でも奴隷は30シケルの価値しかない。

レビ記 22:10
 全て一般の人は聖なる物を食べてはならない。祭司の同居人や雇い人も聖なるものを食べてはならない。しかし、祭司が金をもって人を買った時は、その者はこれを食べることができる。またその家に生まれた者(訳注:これは「その家で生まれた奴隷」という意味)も、祭司の食物を食べることができる。
 ここで神は、奴隷の子として生まれた者は奴隷であるとしている。またそれが問題だとはまったく思っていないようだ。

レビ記 25:44
 あなたがもつ奴隷は男女ともにあなたの周囲の異邦人のうちから買わなければならない。すなわち、彼らのうちから男女の奴隷を買うべきである。また、あなたがたのうちに宿っている旅人の子供のうちからも買うことができる。また彼らのうちあなたがたの国で生まれて、あなたがたと共にいる人々の家族からも買うことができる。そして彼らはあなたがたの所有となるだろう。あなたがたは彼らを得て、あなたがたの後の子孫に所有として継がせることができる。すなわち、彼らは長くあなたの奴隷となるだろう。
 
 神はここで、どこで奴隷を買えばよいか述べている。また奴隷は売り買いされ、相続される財産であると明記している。

ルカ福音書 7:2
 ところが、ある百人隊長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていた。この百人隊長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老をイエスのところへ遣わし、自分の僕を助けに来てくださるようにと、お願いした。彼らはイエスのところに来て、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただく値打ちがございます。私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれたのです」。そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまで来られたとき、百人隊長は友人を送ってイエスに言わせた「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。私の屋根の下にあなたをお入れする資格は、私にはございません。それですから、自分でお迎えにあがる値打ちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉をください。そして、私の僕を治してください。私も権威の下に服しているものですが、私の下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、他のものに『来い』と言えば来ますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆のほうに振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。使いにきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。
 
 ここでイエスは、彼もまた奴隷制を問題とは思っていないことを示している。イエスは奴隷を治したが、奴隷を解放するとか奴隷制について主人に訓戒するとかいうことは考えなかったのだ。

コロサイ人への手紙 3:22
 僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。  
 ここで神は奴隷という身分が存在することを完全に許容し、奴隷にがんばって働くようにと言っている。この意見はテトスへの手紙でも繰り返される。

テトスへの手紙 2:9
 奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勤めなさい。

 神はここでも、奴隷制への支持を示している。

神は奴隷制の支持者である
 
 もし聖書が神によって書かれたものなら、これらは主その人の言葉ということになる。このことから導き出される結論は一つ、神は奴隷制の熱心な擁護者であり、この制度を完全に支持している。

 ここで見た奴隷制についての節の数々は、巨大な矛盾を提示する。

・他方では、私たち全員が、奴隷制は人権侵害であり道徳的に忌まわしいと考えている。その結果、現在先進国の全てで奴隷制は違法となっている。

・他方では、ほとんどのキリスト教徒は聖書は神から来たと主張している。神の言葉である聖書によると、「宇宙の創造者」は奴隷制は完全に許容できるとしている。所有する奴隷を殴ってもいい。子供を奴隷にしてもいい。奴隷を家族から引き離してもいい。聖書によると、私たちは今日でも奴隷制を実行すべきなのだ。

 この強烈な矛盾は注目されるべきだ。それは私たちに、神が空想であることを明白な形で告げている。

 もし神が存在し、この星で何かを行っているなら、自分と奴隷制の関係を解消しようとするだろう。愛の神が、自分がこのように奴隷制を認めており、推奨していると見なされたい、と思っているはずがないのである。

 あなたに考えてほしいことだが、あなたが道理をわきまえた人間なら、奴隷制は間違っていると知っているはずだ。だから世界の全ての先進国は、奴隷制を完全に違法としているのだ。人類は神の言葉を完全に無視して、奴隷制を違法とした。私たち全員が、奴隷制は忌まわしいということに同意したからだ。

 旧約・新約の両方で奴隷制を支持している聖書について常識で考えたとき、分かることは何だろう。聖書が奴隷制を完全に認めているという事実は、常識的に考えて神が空想であることを示しているのではないだろうか。

管理人コメント
 今回はけっこうやばいと思ってる人も多いと思うけど、これでもかなりおとなしい言葉を選んで訳したんだよ。原文ではさらにやばい単語が使われてる。
 原文では聖書の神が奴隷制を支持していることを、神が空想である証拠としている。これをもう少し詳しく言うと「イスラエル人が当時の社会の制度を、神という絶対者の名を持ちだして正当化した」証拠ということになると思う。聖書が書かれた時代には、奴隷を所有するのはごく普通のことだったので、その扱いについての当時妥当と見なされていた決まりを、聖書の中に入れることにしたんだろう。人間が作った決まりでは破る人が出るかもしれないけど、神が作った決まりを破る者は、当時の人間のなかにはまずいない。聖書の中に出てくる律法というのは、おそらくこういう、「当時の社会では常識とされていた決まり」の集まりだ。ということで、宗教の聖典というのは、考古学的に貴重な書物なのかもしれない。


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