忍者ブログ

海外ゲテモノ情報

管理人が見つけたおもしろい海外サイトを翻訳するブログ。

神の不在証明17 神とレプラコーン

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

神の不在証明17 神とレプラコーン

原文:http://godisimaginary.com/i17.htm

  多くの信者は「神(アラー、ラー、ビシュヌ その他)が存在しないことを、証明することはできないだろう。何かが無いということを証明する方法はないのだから」と言うかもしれない。次のような理由により、これは愚かしい主張である。

 私たちがある日話をしていて、私があなたに「私はガーフレゲンフロップルの存在を信じている。ガーフレゲンフロップルが存在しないことを証明することはできない。だから、それは存在する」などと言ったら、どう思うだろう。あなたにはこの主張が馬鹿らしいということは分かるだろう。私が空中から意味の無い何かを創り出し、それの不在証明は不可能だから存在するに違いないとしているからだ。ガーフレゲンフロップルが存在すると言い張るには、それが存在するという証拠が必要なのだ。そんな証拠はないので、ガーフレゲンフロップルが空想であると言うことは簡単である。

 さて次は、私があなたに「私はレプラコーンの存在を信じている。レプラコーンが存在しないことを証明することはできない。だからレプラコーンは存在する」と言ったらどう思うだろう。あなたはレプラコーンについては聞いたことがあるだろう。レプラコーンに関する本、映画、おとぎ話は多数存在する。人々はしばしば、レプラコーンについて話す。それからレプラコーンというブランドの朝食用シリアルもある。しかしそのことは、レプラコーンが存在するということを意味しない。レプラコーンが存在することを示すような、具体的な証拠はないのだ。全く。そのため、正常な人間にとっては、レプラコーンが空想であるということは明らかなことだ。

 そのことを考えると、神とレプラコーンの間に違いなどないことに気づくだろう。多くの人がそれが実際に存在するかのように神について語るが、神の存在を示す証拠はないのだ。例えば

・神が地上に自分の存在を示す証拠を残したことはない。

・私たちは歴史上の神は全て空想であったことを知っている。(不在証明10を参照)

・イエスの「奇跡」もまた、具体的な証拠を残していない。(不在証明14を参照)

・神は現代人に何かを語ったことはない。神なら例えば、全てのテレビ局を占領して全ての人にメッセージを伝えることもできるはずなのだが。

・復活したイエスは、誰のところにも現れていない。(不在証明15を参照)

・聖書の内容は誤りであることが証明されており、神ではなく原始的な人間の作品であることが明らかである。(不在証明5を参照)

・祈りを統計的に解析すると、「神が祈りに答えている」という証拠はないことが分かる。(不在証明2を参照)

・ホロコーストやエイズのような巨大で驚くべき惨事が起きているが、神がそれらを何とかしようとしている様子はない。

 神の存在を示唆するような証拠は全くない。神が存在しないという経験的な証拠は膨大な量存在する。従って結論としては、私たちは神は空想であると言うことができる。合理的な人間なら、そうとしか言えない。

他の視点から
 同じ疑問に対する違う見方もある。

 経験上知っている全ての物体や現象について、私たちはそれが本当に存在するかを科学的な方法を使って判断する。例えば、X線は見えないが私たちはそれが存在することを知っている。私たちはX線が存在することを証明するための実験を、考案することができるのだ。そのため、一度存在が証明された後は、X線は数多くの用途に有益に使われている。

 もしあなたが神が存在するという仮説を提唱したいなら、神が存在するという証拠になるような再現性のある科学実験を考案するべきだ。しかし考案された全ての実験は、神が空想であることを示している。

 神を宇宙の他の全てのものとは別のカテゴリーに入れてしまうというのは、奇妙なことではないだろうか。神について語るとき、私たちは神を「哲学的」に考えることが多い。何故だろう。なぜ神を他の全てのものと同じように扱い、神の存在ないし不在を証明するような実験を考案しないのだろう。

 宗教による古典的な回答では、「神は隠れていなければならない。もし神が自らの存在を証明したりすれば、信仰が失われる」ということになる。これは賢い方法だ。神というものが存在し、それは自らの存在を完全に隠すことによって存在を証明するというのだ。もちろん現実世界では、それが存在する証拠がないものは何であれ、空想に分類される。

 さらにおもしろいことに、神と呼ばれる完全に存在を隠しているらしい何かは、同時に本を書き、祈りに応え、肉体を持って地上に現れているらしいのだ。そんなことがあり得るのだろうか。この明らかな矛盾が示すのは、神が空想であることだ。祈りを科学的に検証すると、「応えられた祈り」は、偶然に過ぎないことが分かる(不在証明2を参照)。聖書を科学的、倫理的、あるいは合理的に見ると、聖書は間違っていることが分かる。(不在証明5を参照)。イエスの奇跡を科学的に検証すると、その全てが科学的ないし歴史的な証拠を全く残していないことが分かる(不在証明14を参照)。イエスの復活についても同じことだ(不在証明15を参照)。

 神が存在することを示す経験的な証拠が何も見つからないのは、「神は魔法によって、その存在を完全に隠すことができる」からではない。単に神が空想だからだ。

管理人コメント
 この章を読んで分かったと思うけど、実は「不在証明」と言えるようなものは存在しない(こんなタイトルをつけておいて何だけど)。「何かが存在しない」ということを証明することはできないからだ。無神論というのは、「神が存在する証拠がない以上、存在しないものとして扱うべきだ」という主張であって、「神など絶対にいないと証明できる」という主張じゃない。

 これに対して「証拠の不在は不在の証拠ではない」という言葉が思い浮かぶと思う。でも少なくとも証拠の不在から、その何かは他のものに影響を及ぼしていないということは言える。もし神が人間世界に影響を及ぼす存在なら、影響を及ぼした証拠を残すはずだ。ということで、神がいるという証拠が存在しないことは、少なくとも現実世界に影響を及ぼすような神はいないという証拠にはなるんじゃないかと思う。
PR

コメント

プロフィール

HN:
susc
性別:
非公開

P R