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神の不在証明26 聖書の著者は「全知」ではない

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神の不在証明26 聖書の著者は「全知」ではない

原文:http://godisimaginary.com/i26.htm

 なぜ聖書を読んでも、その内容に畏敬の念を抱くということがないのだろう。例えば、聖書のこれらの節を見てほしい。


申命記25:11
 二人の人が互いに争うときに、その一人の妻が打つ者の手から夫を救おうとして近づき、手を伸ばして、その人の隠し所を捕まえるならば、その女の手を切り落とさなければならない。哀れみを架けてはならない。

創世記38:8
 そこでユダはオナンに言った、「兄の妻のところに入って、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻のところにはいった時、兄に子を得させないために地に漏らした。彼のしたことは主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。

申命記21:18
 もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしめても聞かないときは、その父母はこれを捕らえて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない。「私たちの子はわがままで、手に負えません。私たちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです。」。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らせなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。

出エジプト記35:2
 六日の間は仕事をしなさい。七日目はあなたがたの聖日で、主の全き休みの安息日であるから、この日に仕事をする者は誰でも殺されなければならない。

レビ記20:13
 女と寝るように男と寝る者は、二人とも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。

イザヤ書13:13
 それゆえ、万軍の主の憤りにより、その激しい怒りの日に、天は震い、地は揺り動いて、そのところを離れる。彼らは追われた。かもしかのように、あるいは集める者のいない羊のようになって、おのおの自分の民に帰り、自分の国に逃げていく。全て見出される者は刺され、全て捕らえられる者は剣によって倒され、彼らのみどりごはその目の前で投げ砕かれ、その家はかすめ奪われ、その妻は汚される。

出エジプト記21:20
 もし人が杖をもって自分の奴隷を打ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。しかし、彼がもし一日か二日生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。

テモテへの第一の手紙2:11
 女は静かにしていて、万事につけ従順に教えを学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを私は許さない。むしろ、静かにしているべきである。

コロサイ人への手紙3:22
 僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心を込めて主を恐れつつ、従いなさい。

ルカ福音書14:26
 「誰でも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらには自分自身をも憎まなければ、私の弟子となることはできない。」

申命記22:13
 もし人が妻をめとり、妻のところに入って後、その女を嫌い。「私は子の女をめとって近づいたとき、彼女に処女の証拠を見なかった」と言って虚偽の非難をもって、その女に悪名を追わせるならば、その女の父と母は、彼女の処女の証拠を取って、門にいる町の長老たちに差し出し、そして彼女の父は長老たちに言わなければならない。「私はこの人に娘を与えて妻にさせましたが、この人は娘を嫌い、虚偽の非難を持って、『私はあなたの娘に処女の証拠を見なかった』と言います。しかし、これが私の娘の処女の証拠です」と言って、その父母はかの布を町の長老たちの前に広げなければならない。
 そのとき、町の長老たちは、その人を捕らえて撃ち懲らし、また銀百シケルの罰金を科し、それを女の父に与えなければならない。彼はイスラエルの処女に悪名を負わせたからである。彼はその女を妻とし、一生その女を出すことはできない。
 しかし、この非難が真実であって、その女に処女の証拠が見られないときは、その女を父の家の入り口に引き出し、町の人々は彼女を石で撃ち殺さなければならない。彼女は父の家で、みだらな事を行い、イスラエルのうちに愚かなことをしたからである。あなたはこうして、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。

イザヤ書40:8
 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、我々の神の言葉はとこしえに変わることはない。


 これらの節はまったくもって馬鹿げていると思わないだろうか。聖書には他にも数千のこのような節が存在する。

 そのため私たちは疑問を持たざるを得ない。なぜ神によって書かれた本は、驚きと感嘆の念を与えるようなものではないのだろう。全知であり、全能であり、愛である宇宙の創造者の本を読めば、作者の才気、明晰さ、見識に衝撃を受けるはずだと思わないだろうか。ページをめくるたびに、作者のすばらしい文章と壮大な洞察の虜になるはずだと思わないだろうか。

 実際に聖書を開くと、感じるのは悪い意味での驚愕でしかないということに、気づかないだろうか。聖書に英知の代わりに詰まっているのは、馬鹿げた言葉だ。奴隷制を擁護していることなどはその好例と言えるだろう(証明13を参照)。しかしこんなのは氷山の一角に過ぎない。聖書のほとんどのページで見つかるのは、見識ではなく戯言だ。

 言い換えよう。なぜ聖書はこんなに使えない本なのだろう。なぜ神その人とされる聖書の作者は、こんなに物を知らないのだろう。なぜ作者の知識は、実際にその言葉を紙に起こした原始的な人間のレベルにとどまっているのだろう。作者が全知の神だと仮定して聖書を読んでいるなら、これは全く訳が分からない現象である。しかし、聖書を書いたのは現在のアフガニスタンの辺境に住んでいるような原始的な人間だとすれば、きれいに辻褄が合う。
 
 神は空想で、当然聖書の内容にも関わっていない。聖書は原始的な人間によって書かれた書物で、訳の分からない内容なのはそのせいなのだ。

管理人コメント
 そういえばConservapediaのキリスト教原理主義者が、聖書は永遠の真理だと書いてたなあ。彼らはこの章に出てくるような節も認めるんだろうか。 …認めるかもね、彼らなら。
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