原文:
http://godisimaginary.com/i29.htm
キリスト教徒は聖餐式に長年親しんできたので、この儀式がいかに奇妙なものであるかについて忘れがちだ。この儀式の「イエスの肉を食べ、血を飲む」という考えは、まったくもってグロテスクなものだ。
この儀式がどこから来たかや、数十億人がなぜこんな奇妙な儀式に参加するのかを、不思議に思ったことはないだろうか。まず、この儀式を命じている聖書の箇所を見てみよう。マルコ福音書の14章
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれを裂き、弟子たちに与えられた、「取れ、これは私の体である」。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流す私の契約の血である。」
ルカ福音書の22章にも似たような内容が数行ある。
しかしヨハネ福音書の6:53のほうがより生々しい。
イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲むものには永遠の命があり、私はその人を終わりの日によみがえらせるだろう。私の肉はまことの食物、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血を飲むものは私におり、私もまたその人におる。」
全ての正常な人間にとって、これは身の毛もよだつホラー映画の脚本のようであり、吐き気をもよおすような悪魔の儀式のようでもある。慈愛に満ちた宇宙の創造者の言葉のように見えないのは確かだ。
あなたが正常な人間で、キリスト教にこれまで接したことがないと想像して欲しい。そしてその場合、キリスト教徒があなたのところに来て、ヨハネ福音書6:53を読み始めたらどう思うかを想像して欲しい。全ての正常な成人は、キリスト教は狂気の沙汰だという正当な結論を下すだろう。そうであれば、ヨハネ福音書6:53と書いてあるバンパーステッカーなど見かけなくなるはずだ。
この結論は的確なものだ。辞書はカニバリズムを次のように定義している。
普通は儀式的な理由で、人間が人間の肉を食べること
イエスが要求しているのは、カニバリズムに他ならない。
このこと全てを常識的に考えて、得られる結論は何だろう。ここで述べられているのはカニバリズムであり、キリスト教徒がやっていることはまさしく、異教の・悪魔的な儀式に見える。あなたがキリスト教徒なら、次の二つの疑問が頭を駆け巡っていることだろう。
1、私は正常な個人として、なぜ儀式的なカニバリズムに参加しているのだろう。私はなぜこんなことをしているのだろう。
2、全能の慈愛に満ちた神は、なぜ私にこんなことをするよう要求するのだろう。私が崇拝しているのはどんな神なのだろう。
儀式の起源
知りたいなら、キリスト教がなぜこの奇妙な儀式を持つかを説明しよう。天にいる全能の神が、この行為を要求しているわけではない。キリスト教の儀式は全て人間が作ったものだ。キリスト教とは、数十の異教の上を転がって巨大化した雪玉なのだ。雪玉は大きくなるにつれ、改宗者に受け入れられやすいよう、異教の儀式を取り込み始めた。この過程については、ダン・ブラウンの「ダヴィンチ・コード」にも書いてある。
・キリスト教の象徴における異教の痕跡は否定できない。エジプトの太陽の盤は、カトリックの聖人の後光となった。女神イシスが奇跡によって得た息子ホルスを抱く石盤画は、聖母マリアが赤ん坊のイエスを抱く絵の青写真となった。そしてカトリックの儀式のほとんどの要素、司教冠、祭壇、「神を食べる」聖餐式、などはより古くからあった異教から直接持ち込まれたものだ。
・キリスト教にオリジナルの要素は何もない。キリスト教以前の神のミスラは、神の子、世界の光などと呼ばれており、12月25日に産まれ、死後岩の墓に埋められて、三日後に復活した。ところで12月25日は、オシリス、アドニス、ディオニソスの誕生日でもある。キリスト教の聖日でさえ、異教から盗用したものだ。
全ての正常な人間にとって、聖餐式はキリスト教徒が行う最も奇妙な行為の一つだ。イエスのカニバリズムの性癖は、彼が神でないことの明白な証拠である。
歴史的に調べれば、イエスは他のすべての人と同じような、ただの人間であったと理解できるだろう。彼の誕生、人生、死に関する神話は、人間が作った異教の物語から取ったものなのだ。