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神の不在証明33 十字架刑について

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神の不在証明33 十字架刑について

原文:http://godisimaginary.com/i33.htm

 十字架刑の物語がいかに奇妙なものか考えたことがあるだろうか。全知全能の宇宙の創造者が、天国の荘厳な椅子に座っているところを想像してみよう。彼は地上を見下ろし、こんな独り言をつぶやいているのだ。
 地上の人間は邪悪だ。奴らがやっていることを見ると反吐が出る。奴らの罪ときたら…
 
 私は全知なので人間が何をやっているかや、奴らがなぜそうしているかを知っている。何しろ自分自身の似姿として人間を作り、その脳をプログラムしたのは私自身なのだから。つまり私が人間の罪全ての創造者だ。人間を作った瞬間から、私はそれぞれの人間が何をやるかをナノ秒レベルで知っていた。もしそれが気に食わなければ、奴らを作り直せば良いだけの話だった。そして私は完全な存在なのだから、自分が何をやっているのかは分かっていた。私は人間がやっていること全てが気に食わない。奴らがそうするように人間を作ったのは私だし、作った瞬間から奴らが何をやるのかはわかっていたが、そんなことはどうでもいい。私は奴らがやっていることに反吐が出る! 私は全ての人間と動物を洪水で殺そうとしたが、問題の解決にはならなかったようだ。
 
 だからこうすることにした。私は処女を妊娠させる。彼女は私の人間版を産むだろう。人間どもは人間版の私を十字架に架け、殺すだろう。これでいい。そう、私自身を地上に送り、人間どもに十字架刑に処させる。これで私は満足だ。私は今気分がいい。

 意味不明だと思わないだろうか。なぜ全知の存在が、人間に自分(イエスは詰まるところ神だ)を殺させることで満足するのか。神が完全であることを考えるとさらに話がおかしくなる。神は自分の望みどおりに万物を創造したはずなのだ。立ち止まって真剣に考えれば、十字架刑の物語全体が1から10まで愚かしいものであることが分かるはずだ。

 イエスの物語を信じるなら、イエスは自分が神であることを明らかに知っていた。ヨハネ福音書の14:8でイエスはこう言っている。
ピリポはイエスに言った、「主よ、私たちに父を示してください。そうしてくだされば、私たちは満足します」。イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、私が分からないのか。私を見た者は父を見たのである。どうして、私たちに父を示して欲しいと言うのか」

  このことを考えると、マタイ福音書の27:46におけるイエスの有名な台詞は不可解だ。
 そして3時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニと言われた。わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味である。

 イエスは神なので、イエスは「私よ、私よ、なぜ私を見捨てたのだ」と言っているとしか考えられない。もちろんまったく意味不明である。

 十字架刑という意味不明の教義は、神が空想であることの証明である。
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