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神の不在証明36 神は不可能である

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神の不在証明36 神は不可能である

原文:http://godisimaginary.com/i36.htm

 辞書を引くと、神の定義は次のようなものだ。
 完全で全知全能で、宇宙の創造者であり支配者であるとされる存在。一神教で信仰と崇拝の対象とされる。

 信者のほとんどはこの定義に同意するだろう。
彼らは神について、非常に明確で首尾一貫したイメージを持っている。そう、宗教にはたくさんの些細な違いがある。信者はその違いにより、長老派、ルター派、カトリック、バプティスト、聖公会、メソジストなどのたくさんの宗派に分かれている。しかし基本的には、神への信仰はいくつかの中心的な考えに帰着するのだ。

 完全で全知全能の宇宙の支配者がいるとはどういうことか考えてみよう。そのようなものが存在することはできるのだろうか。紀元前300年にエピクロスはそれを考え、こう結論付けた。
 神は世界から悪を取り除けるが、そうする気がないのかもしれない。悪を取り除く気があるが、できないのかもしれない。悪を取り除く気はないし、そうする能力もないのかもしれない。またはやる気も能力もあるのかもしれない。悪を除く気があるができないなら、神は全能ではない。悪を取り除く能力があるがしないのなら、神は慈悲深くない。悪を取り除く能力はないしそうする気もないなら、全能でもなければ慈悲深くもない。最後にやる気も能力もあるとすれば、それはどのように存在するのか。

 これはマタイ福音書でのイエスの言葉の引用である。

7:7
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 7:9あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 7:10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 7:11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 

 ここでも神の不可能性を見ることが出来る。イエスの言葉を念頭において、自分が餓死しかけているエチオピアの子供だと想像してみよう。あなたは食べ物を求めて祈っている。イエスの言葉が本当だとすれば、何が起こるだろうか。神が慈悲深く全知全能の「天の父」であれば、神があなたに食べ物をくれることを期待できるのではないだろうか。実のところ、子は求める必要さえないはずだ。普通の親なら子供が懇願しなくても食べ物を与える。しかし奇妙なことに、今日地上では数百万人が餓死しているのだ。

 神の不可能性を示すものとしては他に、全知という概念そのものがある。もし神が全知なら、神はこの宇宙で起こっていることを全て知っているはずである。現在起きていることから、無限の未来の出来事にいたるまでだ。そんな宇宙に自由意志は存在するだろうか。明らかに存在しない。神はあなたに起こること全てを知っている。つまり神はあなたを造った瞬間から、あなたが天国に行くか地獄に行くかを知っているのである。地獄に落ちると最初から分かっている人間を造るような神は悪の権化だ。

 神の不可能性を理解する方法は他にもある。神の定義によると、神は「宇宙の創造者であり支配者」である。何故宇宙に創造者が必要なのだろう。宗教の論理によると、宇宙は創造者がいなくては存在できないらしい。信者なら「何物も創造されない限り存在できない」と言うかもしれない。しかし、この意見はただちに矛盾を引き起こす。ならばその創造者を造ったのは誰なのかを考える必要が出てくるのだ。信者にとっては答えは単純だ。神は創造者を必要としないのである。神は時間を超越し、常に存在するのだ。しかし全ての物に創造者が必要だが、神には必要ないなどということがあるだろうか。神の定義には明らかな矛盾がある。

 完全で全知全能の存在という概念について考え出した途端、その概念の矛盾に気づくことになる。神の概念の不可能性は、神が空想であることを示している。
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