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神の不在証明7 宗教という妄想

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神の不在証明7 宗教という妄想

原文:http://godisimaginary.com/i7.htm

 私があなたに次のような話をしたと想像してほしい。

・北極にすむ一人の男がいる
・彼は妻と妖精と一緒に住んでいる
・彼は一年中、妖精と一緒にオモチャを作っている
・彼はクリスマスイブになると、オモチャを袋にいれて橇に乗る
・橇には空飛ぶトナカイがつながれている
・彼は家から家へと飛び回り、それぞれの家の屋根に降り立つ
・それから彼は煙突から家に入り、その家の子供のためにオモチャを置いていく
・オモチャを置き終わると、彼は橇に戻って次の家に向かう
・彼は世界中でこの作業を行うが、それを一晩でこなす
・作業が終わると、彼は北極に戻っていく

 これはもちろん、サンタクロースの話である。


 しかし、私がこの話を真剣に信じていると告白したら、あなたはどう思うだろう。そして私があなたにもそれを信じさせようとしたら、どう思うだろう。もちろんあなたは私が妄想にとりつかれていると思うだろうし、その通りだ。

 なぜあなたは、私が妄想にとりつかれていると判断できるのだろう。サンタが空想だと知っているからだ。この話は全てがおとぎ話だ。私がいくらサンタについて話したところで、あなたがサンタの存在を信じるようにはならないだろう。例えば空飛ぶ橇は、明らかに空想の産物だ。辞書の妄想の定義は「反証があるにも関わらず維持される誤った信念」だが、この定義が完全に当てはまる。

 あなたが私の友人なら、サンタが妄想であることを私に理解させようとするだろう。あなたはそのために、私にいくつかの質問をしてみると思う。そして私はそれに答える。例えばこんな感じだ。

・「世界の全員のためのオモチャを、一つの橇に積むことなどできるのか?」 これに対して私は、橇には魔法がかかっているので、いくらでもオモチャを積めると答える。

・「サンタは煙突のない家にはどうやって入るのだ?」 これに対して私は、サンタは煙突を一瞬で出現させる能力をもつのだと答える。

・「かまどに火がついていた場合、サンタはどうやって降りてくるのだ?」 これに対して私は、サンタの服は耐火性の上、すすがついても勝手にきれいになるのだと答える。

・「なぜ警報システムはサンタを発見できないのか?」 これに対して私は、サンタは警報システムが感知できない存在なのだと答える。

・「サンタはどうやったら、一晩で世界の全ての子供のところに行けるのか?」 これに対して私は、サンタは時間を超越した存在なのだと答える。

・「サンタは全ての子供について、よい子か悪い子かをどうやって知るのだ?」 サンタは全知なのだ。

・「なぜオモチャの配分はこんなに不可解なのだ? サンタが金持ちの悪い子供には、貧乏なよい子供より多くのオモチャを与えるのはなぜなのだ?」 死すべき者にすぎない私たちには分からないが、サンタにはそれなりの理由があるのだろう。例えば貧乏な子供に高価な電気仕掛けのオモチャをあげても、電池を買えないだろう。サンタはそんなことが起こらないようにしているのかもしれない。

 私はあなたの質問に全て答えた。私はあなたが自分と同じように考えないのが不思議だし、あなたの方では私がなぜ正気を失ったのか不思議に思っている。

 なぜ私の答えはあなたを満足させないのか? なぜあなたは私が妄想にとりつかれていると思うのか? それは私の答えが、私の考えが妄想だというあなたの判断を補強するものしかないからだ。私の答えは馬鹿げている。私はあなたの質問に答えるため、魔法の橇、魔法の服、魔法の煙突、時間を超越する能力などを、何の根拠もなく創作した。これらが私のでっち上げだと知っているから、あなたは私の答えを信じないのだ。さて、次の例を紹介しよう。

次の例

 私があなたに次のような話をしたとしよう。

・私が夜一人で部屋にいると、部屋が突然明るくなった。
・次の瞬間、天使が部屋に現れた
・天使は私に驚くべき物語を語った
・天使によると、ニューヨークにある丘に古代に作られた黄金の板が埋められており、それらはアメリカに住んでいて今は死に絶えたユダヤの部族についての本だという。なお板に記されている文字は、彼らの言葉であるらしい。
・最後に天使は私を板がある場所まで連れて行き、板を家にもって帰らせた。板は知らない言葉で書かれていたが、天使が翻訳を助けてくれた。
・その後、板は天に運ばれた。
・私は板に書かれた内容を訳した本を持っている。そこには驚くべきことが書かれている。2000年前にユダヤ人がアメリカに住んでおり、彼らは復活したイエスに会ったと言うのだ。
・黄金の板については何人も証人がいる。彼らはそれを天に運ばれる前に見たし、触った者もいる。彼らはそれについての証明書にサインをした。

 さて、あなたはこの話については何と言うだろう。私がユダヤの失われた文明についての英語の本や、それについてのサイン入りの証明書を持っていても、あなたはこの話をいかれていると判断しないだろうか。

 あなたは私に素朴な質問をするだろう。例えば基本的な問題点として、その文明の遺跡や遺物はどこに行ったのだ? 板から翻訳された本によれば、数百万人のユダヤ人がアメリカにいて、あらゆることをやっていたことになっている。彼らは馬や牛を飼っており、軍隊と巨大な街を築いていたのだ。それらに何が起きたのだ? 私はそれに対してこう答える。「遺物はあるが、まだ見つかっていないのだ」。「馬車の車輪一つ、兜一つ見つからないのか」とあなたは問う。その通り、証拠は一つも見つかっていないが、どこかにはちゃんとあるのだ。あなたには似たような質問が数ダースほど思い浮かぶだろうが、私はその全てについて答えを持っている。

 たいていの人はこの話をすると、それが私の妄想だと判断する。彼らは黄金の板も天使も存在しなかったし、本は私が自分で書いたものと決めつける。また証明書については、買収して署名させたか、署名自体をでっちあげたものと判断して無視する。たいていの人は、議論するまでもなくこの話を認めない。

 おもしろいのは、実際にこの話を信じる人が数百万人いることだ。彼らはソルトレークシティーに本部があるモルモン教会の信者だ。この話の生みの親はジョセフ スミスという男であり、彼は1800年代に生きていたアメリカ人だ。彼はこの話を語り、「黄金の板から翻訳した話」をモルモン書として記録した。

 モルモン教徒と会ってこの話について質問すれば、彼らは何時間にもわたって語ってくれるだろう。彼らはあなたの質問の全てに答えることができる。しかし世界人口の99%はこの話を信じていない。あなたも私も、モルモン教の話はサンタの話と変わらないことを認めるはずだ。そしてそれは正しい。この話への反証は膨大な数存在するのだ。

次の例
 
 私があなたにこんな話をしたとしよう

・ある男が洞窟の中で考え込んでいると、閃光が走り、「読め」という声が聞こえてきた。これが数回繰り返された。
・男が「何を読めばいいのでしょうか」と尋ねると、「人間を作られた主、もっともいと高き方の言葉、人間がいまだ知らないことについての言葉を読め」という答えが返ってきた。
・男は妻のもとに帰った。帰る途中、彼は空に天使を見た。天使は男が神の預言者に選ばれたと述べ、自分はガブリエルだと言った。
・その夜、天使は夢に現れた。
・天使は何度も何度も現れ、時折男と話をした。書記がその話を書き留めた。
・それから11年後、天使は空飛ぶ馬とともに男の前に現れた。男はその馬に乗せられてエルサレムまで行った。それから馬は男を天国まで運んでいき、男はそこにいる人間と言葉を交わした。それから男は地上に戻った。
・男はエルサレムの風景について正確に語り、自分がエルサレムにいったことを実証した。
・男はそれからも23年間にわたって天使の啓示を受け取り続けた。これらの啓示全ては、今日も存在する本に記されている。

 あなたはこの話をどう理解するだろう。この話を聞いたことがなければ、サンタや黄金の板の話と同じようなものだと判断するのではないだろうか。天使の啓示によるものとされる不可解な本を読むと、さらにそう感じるだろう。空飛ぶ馬、天使、天国への旅、あなたはこれらすべてを空想として片付けるはずだ。

 しかし気をつけてほしい。この話は世界で10億人以上の信者がいるイスラム教の基礎となっているのだ。男の名はムハンマドであり、本の名前はコーラン(クルアーン)だ。これはコーランの誕生と、神から人への啓示に関する神聖な物語なのである。

 全てのイスラム教徒がこの話を少なくともいくらか信じているにもかかわらず、イスラム教徒でない人間はこの話を空想とみなす。イスラム教徒以外は、この物語はおとぎ話でありコーランは人間が書いたものだと考えるのだ。天国まで飛ぶ馬? サンタの橇と同じ空想の産物でしかない。

 あなたがキリスト教徒なら、モルモン教とイスラム教の話を読み返してみてほしい。なぜあなたはこれらの話を簡単に空想と判断できるのだろう。なぜあなたはモルモン教やイスラム教が妄想だと、確信を持って言えるのだろう。サンタが空想だと判断したのと同じ理由からだ。これらの話を裏付ける証拠はまったくない。馬は飛べない。誰もが知っている。そしてもし飛べたとしても、いったいどこに飛んでいくと言うのだ? 真空の宇宙空間へか? それとも馬は天国で「脱物質化」や「再物質化」を受けるのか? 全部が空想であることは一目で分かる。

 偏見のない観察者なら、これら三つの物語が空想であると判断できる。そしてイスラム教徒はモルモン教が妄想であると判断できるし、モルモン教徒はイスラム教が妄想であると判断できるのだ。またキリスト教徒は、モルモン教もイスラム教も妄想だと判断できる。

最後の例

 さて、最後の話を語ろう

・神はマリアを妊娠させた。彼の息子を地上に出現させるためである。
・マリアと夫のヨセフは、人口調査の記録のためにベツレヘムに行かなくてはならなかった。そこでマリアは神の子を産んだ。
・神は人々がその子供のもとに行き着けるよう、空に星を置いた。
・神はヨセフに家族とともにエジプトに逃れるように言った。それから神はヘロデがイスラエルの幼児を皆殺しにするのを傍観した。
・子供は成人すると、自分は神が受肉した姿だと主張した。「私は道であり、真実であり、生命である(新約聖書)」
・この男は多くの奇跡を行った。彼は病人を治し、水をワインに変えた。このような奇跡が、彼は神だということを証明した。
・しかし彼は最後には十字架に架けられて殺されてしまった。
・男は墓に葬られたが、三日後彼はよみがえったので墓は空になった。
・そして男は復活した姿を多くの人の前に現した。
・彼はその後天に昇り、神の右隣に座っている。
・今日でもあなたはこの男と個人的に関係をもつことができる。あなたが彼に祈れば、応えてくれる。彼はあなたの病気を治してくれ、非常事態から救ってくれ、重要な決定をするのを助けてくれるのだ。
・この男はまた、あなたに永遠の生命をくれる。もしあなたが良い人間なら、彼は天国にあなたのための場所を用意してくれるのだ。
・私たちがこれらのことを知っているのは、男の死後マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の人間が、男の生涯について記述したからである。彼らが書いた証言が、この話が真実であることを示す証拠である。

 これはもちろん、イエスの物語だ。あなたはこの話を信じるだろうか。あなたがキリスト教徒ならたぶんそうだろう。私があなたに質問すれば、あなたはその全てについて答えを持っているだろう、私がサンタの質問に答えたときと同じような答えを。あなたはそもそも何故、この話に疑問を持つ人がいるのかが分からない。あなたにとっては、あまりに明らかなことだからだ。

 あなたには是非理解してほしいのだが、キリスト教徒でない人間はキリスト教の物語を、あなたがサンタの話、モルモン教の話、イスラム教の話を見るのと同じ目で見ているのだ。言い換えると、キリスト教の外には40億(訳注:2007年当時)の人間がおり、彼らには真実がはっきり見えている。その真実とは、キリスト教の物語もまた、完全に空想であるということである。

 どうして40億人の非キリスト教徒には、キリスト教の話が空想であると分かるのだろう。それはキリスト教の話が、サンタの話、モルモン教の話、イスラム教の話と同じようなものだからだ。この話には、人々を導く星、奇跡、復活、昇天、など魔術的な部分が多すぎる。キリスト教徒でない人間はキリスト教の話を見て、次のようなことを指摘するだろう。

・奇跡はイエスが神であることを「証明」するかもしれないが、これらの奇跡が起きたという具体的な証拠はどこにもない。

・イエスは復活したということだが、今日の人間の前に姿を現したことはない。

・イエスは天に昇り、人々の祈りに応えているということだが、彼に祈っても何も起きない。祈りを統計的に分析すると、祈りは誰にも届いていないことが分かる。

・マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書いた文書が納められた本は現存(新約聖書)するが、この本は問題と矛盾だらけだ。

 言い換えるとキリスト教の物語は、ここで見てきた他の三つの物語と同じくおとぎ話だ。

 さて今あなたは何を考えているだろう。私はキリスト教の話が空想であることを示す、強固で検証可能な証拠を提示した。あなたの中の理性的な部分には、証拠がはっきり見えるはずだ。しかし、あなたがキリスト教徒なら、あなたの中の宗教的な部分が理性と常識を押しつぶそうとするのを感じるだろう。何故なのだ。何故あなたはサンタ、モルモン教、イスラム教については常識で空想と判断できるのに、同じくらい空想的なキリスト教についてはそうではないのだ。

 サンタ、ジョセフ・スミス、ムハンマドの物語を考えたときに、あなたが発揮したのと同じ懐疑精神を、少しの間キリスト教にも向けてみてほしい。下の非常に簡単な質問に、常識で応えてほしいのだ。

イエスが存在したという証拠はあるのか? 彼が存在したという形跡はどこにもない。彼の体は「昇天」してしまったし、彼は何も書き残さなかった。彼の「奇跡」は何の証拠も残していない。文字通り、何も。

イエスが奇跡を起こし、死からよみがえり、昇天したと信じるべき根拠はあるのか? ジョセフ スミスがニューヨークで黄金の板を発見し、ムハンマドが空飛ぶ馬に乗って天国に行ったという話と同じくらいの根拠しかない。もっと低いかもしれない。なにしろイエスは2000年前の人間だが、ジョセフ スミスは200年前の人間だ。

あなたは自分はイエスの物語を信じる。聖書に勝る証拠はないからと言いたいのか? その通り。あなたは信仰により、それを信じているのだ。

 幼い子供以外の誰もサンタを信じない。モルモン教徒以外の人間は、ジョセフ・スミスの話を信じない。イスラム教徒以外の人間は、ムハンマドの話を信じない。キリスト教徒以外の人間は、イエスの神性や奇跡や復活を信じない。

 それゆえ、あなたに吟味してほしい質問は非常に単純なものだ。なぜ人は他の宗教のおとぎ話については空想と判断できるのに、自分の宗教のおとぎ話にはそうできないのだろう? なぜ人は自分が選んだ(あるいは親や社会に選ばされた)おとぎ話は大目に見るのに、他のおとぎ話には辛辣なのだろう?

・キリスト教徒は、エジプト人がピラミッドを建てたり王をミイラにしたのは、時間の浪費でしかなかったと知っている。そうでなければ、キリスト教徒はピラミッドを建てるだろう。

・キリスト教徒は、生け贄の心臓をえぐり出して食べるというアステカ人の儀式について、何の効果もなかったと知っている。そうでなければ、キリスト教徒は生け贄として人を殺しているだろう。

・キリスト教徒は、イスラム教徒がメッカに向かって祈ることは無意味だと知っている。そうでなければ、キリスト教徒はメッカに向かって祈っているだろう。

・キリスト教徒はユダヤ教徒が乳製品と肉を分けるのは(訳注:ユダヤ教の聖典には子羊をその親の乳で煮てはならないという記述がある)時間の無駄だと知っている。そうでなければ、チーズバーガーがアメリカの国民食にはならないだろう。

 しかし、キリスト教徒が自らの宗教を見るときには、何らかの理由で彼らの理性は盲目となる。何故だろう。言っておくが、キリスト教が正しいからではない。あなたの理性的な部分はそれを知っているはずであり、40億人の非キリスト教徒もそうだ。お望みなら次の記述を読んでほしい。何故だか分かるはずだ。

単純な実験

 あなたがキリスト教徒であり祈りの力を信じているなら、あなたの信仰についての興味深い事実に気づかせてくれる実験がある。

 ポケットからコインを出し、ラーに向かって真摯に祈ろう

「ラー 全能の太陽神よ。私はこのコインを50回投げますので、50回全てについてコインが表を向くようにしてください。あなたの名において祈ります。アーメン」

 さてコインを投げてみると、せいぜい5回目か6回目あたりでコインは裏向きになってしまうはずだ。

 これは何を意味するだろう。ほとんどの人はこのデータを見て、ラーは空想であると結論づけるだろう。ラーに祈ったが、ラーは何もしなかった。私たちはラーが空想である(少なくとも 祈りに応えたりはしない)ことを統計的な分析によって確認できる。私たちがラーに祈りながら数千回コインを投げ続ければ、コインの表裏の出方は確率の法則に従っているだけだとわかるだろう。ラーにいくら祈ろうが、コインの出方に影響はない。ラーを信仰している人を集めてきて実験をやらせても、結果は同じだろう。それゆえ、私たちは理性によってラーは空想だと判断する。私たちはラーをレプラコーン、人魚、サンタなどと同じように見るし、ラーを信仰する人間は妄想家だと判断する。

 さてまた実験をしてほしいのだが、今回はラーではなくイエス キリストに祈ってほしい。イエスに次のような真摯な祈りを捧げよう

「イエス様、私はあなたが存在し、聖書で約束されたように祈りに応えてくださると信じています。私はこのコインを50回投げますので、50回全てについてコインが表を向くようにしてください。あなたの名において祈ります。アーメン」

 さてコインを投げてみよう。また5回目か6回目で、コインは裏を向いてしまう。

 イエスに祈りながらコインを数千回投げると、コインの表裏の出方は確率の法則に従っているだけだということが分かるだろう。非キリスト教徒とキリスト教徒で、確立の法則の作用が異なるなどということはありそうにない。確率の法則は一つであり、イエスが地上に何らかの作用を及ぼすことはないのである。このことは統計分析によって、議論の余地なく証明できる。

 あなたが神を信じているなら、自分の心の中で何が起きているかを観察してほしい。二つの実験のデータは、まったく同じである。ラーについては、あなたはデータを理性的に見て、ラーは空想だと結論づけた。しかしイエスについては、何か別のことが起きてしまう。あなたは心中で、イエスがあなたの祈りに応えなかったことを合理化するための、あらゆる説明を考え出しているだろう。例えば

・それは彼の意思ではなかったのだ
・彼は忙しかったのだ
・祈り方が不適切だったのだ
・自分の信心が足りなかったのだ
・神をこのように試してはいけないのだ
・これは私についてのイエスの計画ではないのだ    
・その他

 あなたが考えつくと思われるある合理化は、特に興味深いものだ。あなたは自分にこう言い聞かせる 「もちろんイエス様はコイン投げについて祈っても応えないさ。あまりにくだらないし」。このような合理化はどこから来るのだろう。イエスが聖書で祈りについてどう語っているかを読めば、イエスは「コイン投げなんかで祈らないでくれ」などと言っていないことが分かるはずだ。イエスは自分は祈りに応えるとはっきり言っており、祈りの内容について制限は設けていない。あなたはこの合理化の論理を、何の根拠もなく創り出したのだ。

 あなたはイエスのために合理化を行う達人だ。なぜ達人になってしまったかというと、イエスがあなたの祈りに応えてくれないからだ。イエスがあなたの祈りに応えないのは、神が空想だからである。
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