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神の不在証明43 「隠れた神」は不可能である

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神の不在証明43 「隠れた神」は不可能である

原文:http://godisimaginary.com/i43.htm

 神が存在するという証拠は全くないのだが、キリスト教徒はこの事実に関して独特の正当化を行うことがある。「信仰の実例」という本の中で著者のLee StroubleはPeter Kreeftにインタビューしているのだが、Kreeft氏はキリスト教信仰を正当化できる証拠の不在について、次のように述べているのだ。
「聖書は神を隠れた神として描いています。神を発見するには努力や信仰が必要なのです。手がかりならあります。手がかり以上のものがあれば私たちは神を信じるしかないので、信仰するかどうかという選択権を失うことになります。」


 手がかり? 隠れた? 聖書によると神は自らを受肉させたとされているのだが。神はイエスという人間の形でこの世に現れた。これは「手がかり」などと呼べるものではない。巨大かつ具体的な証拠だ。170ポンドほどの重量がある人間が、街角で奇跡を見せて回っているという光景を、「隠れた」などと表現することは到底できない。そして彼が起こした奇跡はいくつかの物語としてまとめられ、本として出版されてしまったのだ。この話のどこに、「隠れた」と言えるような要素があるのだろう。

 また聖書には神が世界に自らの存在をアピールしているとしか思えない箇所が複数存在する。もっともよく知られている例として、出エジプト記で神は紅海を二つに割っている。

14:21モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。 14:22イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。
 これは驚くべき事であり、さらに全く隠しようのないものだ。数千人のイスラエル人がこの出来事を見ていたのだ。同じぐらい明白な出来事は他にも多数ある。天から降ってくるマナ、石板に刻まれた十戒、エジプト脱出の直前に起きた幼子の大虐殺などだ。これらの出来事全てが神の書である聖書に記されているので、今日でも数十億の人々がそれについて読むことができるのだ。

 何かを数千の人間の前で行い、さらにそのことを数十億部の本に載せて世界中にばらまいた後で、実は隠しておきたかったなどということがあるだろうか。明らかに神は隠れた神ではないのだ。

 さらに私たちは忘れがちだが、神の存在を示すさらに明白な印が存在する。神が存在して聖書を書いたのなら、虹こそが神の存在の証拠となるのだ。神は全く隠れてなどいない。何しろ創世記の9:12にはこうある。

9:12さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。 9:13すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。 
 これより明白な事が何かあるだろうか? 聖書によると、神は「代々限りなく」印を置いてくれたのだ。明らかに神は隠れることなど望んでいない。

 新約聖書でも神は隠れていない。例えばマタイ福音書の17にはこうある。

17:1六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 17:3すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 17:4ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 17:5彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。 
 これが隠れた神のやることとは思えない。それともペテロ、ヤコブ、ヨハネの信仰についての選択権は神にとって重要ではなかったのだろうか。ついでに言うと、この話も聖書に記載されているので、数十億の人間が読むことができる。

 またマタイ福音書の3にはこうも書いてある。

3:16イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 3:17また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 
 どう見ても神は隠れてなどいない。

 それとルカ福音書の2。

2:8さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。 2:9すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。 2:10御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 2:11きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。 2:12あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。 2:13するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、2:14「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。2:15御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。

 神は羊飼いたちの信仰の選択権も無視したようだ。

 コリント人への手紙の15:6でパウロが書くところによると、

 
そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。

 この500人も信仰の選択権を失ってしまった。そしてヨハネによると
 
イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。 (ヨハネ福音書21:25)
 イエスはあまりに多くの奇跡を見せたので、その全てをいちいち書き付けると世界も書かれた文書を収めきれないそうである。それぞれの奇跡には少なくとも一人の目撃者がいたはずだ。電話帳一冊に何人の名前が載るかを考えたあと、世界を埋め尽くすほどの数の電話帳を想像してほしい。とんでもない人数になる。彼ら全員の信仰の選択権が影響を受けたのではないだろうか? 数百万人がイエスの姿と彼が起こした奇跡を目撃した後、神はどうやって自らを隠す気だったのだろう。

 イエスは肉体を持った存在としてイスラエルを歩き回っており、人々は皆その姿を見ることができた。さらにヨハネによると、彼は数百万人の前で奇跡を披露している。聖書の神は隠れてなどいない。むしろ注目に飢えている。神は受肉して地上に姿を現し、人々に奇跡を見せていたのだ。さらに神は本を書いて数十億部出版し、世界中の人々がこの出来事について読めるようにした。

 にもかかわらず、神は現在の私たちには奇跡を見せたがらない。なぜなら「神は隠れていなければならない。そうでないと信仰の選択権が失われる」からだそうだ。そんなことがあるのだろうか? 神が突然気を変えたと考えるより、イエスはそもそも奇跡など起こしていないと考えた方が、もっともらしくないだろうか? これにイエスが祈りに応えることなどないという事実を併せて考えると、実際に何が起きているのかは明らかだ。「隠れた」神という考えは馬鹿げている。神は完全に空想の存在であり、神の存在を支持する証拠が全くないのはそのせいなのだ。



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