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神の不在証明32 神学者と話してみよう

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神の不在証明32 神学者と話してみよう

原文:http://godisimaginary.com/i32.htm

 聖書をそのまま読んでも、まったく意味がない(証明5を参照)ことが多いことに気づいたことがあるだろうか。例えばマタイ福音書の17:20でイエスははっきりと、「不可能なことは何もない」と言っている。そしてそれにも関わらず、この声明が真実でないことはあなたにも分かるはずだ。この世の多くのことは事実不可能なのだ。

 キリスト教徒にこの矛盾について聞くと、「ああ、なるほど、あなたは聖書を正しく解釈してないんだよ。神学者と話をする必要があるね。神学者は正しい解釈を教えてくれるから」と言うだろう。

 全知全能で完全な宇宙の支配者にはっきりとした文章を書く能力がなく、彼が書いた本の内容を理解するためには、人間の神学者が必要だというのは奇妙なことではないだろうか。完全な神が「不可能なことは何もない」という文を「不可能なことは何もない」以外の意味で書くことなどあるのだろうか。神は人間が文章をどのように解釈するかを知っているはずなのだ。なぜ神は真実を述べなかったのだろう。

 
 神の発言の意味がしばしばはっきりせず、聖書の内容がしばしば間違っており、私たちが神学者を必要とするのは、神が空想だからだ。神学者と話すと、大体こんな会話を経験することになるだろう。


無神論者:はじめまして。神学の博士号をお持ちだそうですが。

キリスト教徒:はい、私は訓練を受けた神学者です。何か聞きたいことはありますか。

無神論者:質問があります。神は祈りに応えるのでしょうか。

キリスト教徒:はい、確かに。神は私の多くの祈りに答えてくださいました。

無神論者:では、私のポケットに1万ドルが出現するよう、神に祈っていただけますか。

キリスト教徒:祈りとはそんな風に作用するものではありません。私は神は祈りに答えると言っただけです。神はランプの精霊ではありません。

無神論者:それではマルコ福音書11:24でのイエスの発言である、「何であれ祈れば受け取ることができると信じなさい。そうすればそれはあなたのものになります」はどういう意味ですか。祈れば何でも得られるという意味のように見えるのですが。

キリスト教徒:何かを祈ったとき、それがイエスの意思に叶うものであれば、あなたはそれを受け取れるという意味です。どんな祈りであれ、イエスにはそれを叶える責務があるということではありません。またあなたが期待するような答えを出す責務もイエスにはありません。イエスは直接的でない方法で祈りに応えることも多いのです。

無神論者:それが彼の意思だというなら、祈りは必要なくないですか。なぜ祈るのですか。

キリスト教徒:求めよ、そうすれば与えられる。 求めなければならないのです。

無神論者:そうすれば与えられると。しかしイエスは「求めよ。それが私の意志であれば与えられるかもしれない」とは言いませんでした。彼の発言に条件についての規定はありません。

キリスト教徒:彼の発言はそういう意味を暗示していたのです。イエスの発言を一世紀のユダヤ教の教義という文脈で読めば、それが分かります。

無神論者:分かりました。それと神はなぜ不可能な祈りには応えないのですか。例えば、私がスーパーマンのように空を飛べるよう祈ったり、友人の切断された肢が生えてくるように祈ったとき、絶対にそんなことが起きないのはなぜですか。

キリスト教徒:それが神の意思でないからです。あなたが言うような不可能な祈りを神がかなえた場合、信仰が失われてしまいます。私たちの神は信仰の神です。それが神の意図するところであり、聖書のいたるところにそう書かれています。

無神論者:ではなぜ神は、紅海を二つに分けたのですか。そんなことをすれば確実に信仰が失われると思いますが。

キリスト教徒:神の意図や聖書の目的についてまったく理解されていないようですね。モーゼの時代と今とでは、神と人の関係はまったく異なるのです。

無神論者:そうですか。マタイ福音書の17:20でイエスが「不可能なことは何もない」と言っていますが、スーパーマンのように空を飛んだりポケットに1万ドルが出現することがその中に入らないのは何故ですか。

キリスト教徒:聖書の祈りに関する約束についての神学的解釈を学んだことがないようですね。神は何であれ、祈りに応える義務などもたないのです。

無神論者:イエスは山を動かすという明らかに不可能な行為を例えに使っていますが、これはどういう意味でしょうか。

キリスト教徒:イエスは隠喩的に語ったのです。一世紀にはそれが一般的でした。

無神論者:ではイエスの「誰であれ信仰を持つものは山を動かすことも出来る。」という発言は実際には「信仰を持っていても山を動かすことはできない」という意味なのですね。

キリスト教徒:違います。

無神論者:では山を動かせる人がいるのですか。

キリスト教徒:神は山を動かすことが出来ます。

無神論者:しかし神はそうしませんでした。

キリスト教徒:それが神の意思ではなかったからです。それと神は隠れていなければならないことを心に留めておいてください。

無神論者:はっきり言わせてください。これがマタイ福音書17:20でのイエスの発言です
山に向かって、ここからあそこへ動けと言えば動く、不可能なことは何もない。
 対してこの発言に対するあなたの解釈はこのようなものですね。
 山に向かって、ここからあそこへ動けと言えば動く。不可能なことは何もない。それが可能なものであり、私の意志と一致する限りは。
 これでいいんですよね。

キリスト教徒:あなたは本当に無知で愚かですね。どの聖書解釈者もどのキリスト教の派も、これらの節についてのあなたの解釈には賛同しないでしょう。私も賛同しません。

無神論者:質問に答えてください。これがイエスの真意なのですか。

キリスト教徒:そんな話をすること自体不敬です。

無神論者:私が理解できないのはここなのです。イエスが聖書で語っていることは明らかに誤りです。もし神が完全であれば、聖書に完全に間違ったことを書く理由がありません。神が聖書に書いたことの真意を理解して説明するために、なぜあなたのような人間が必要なのですか。全知全能で完全な神は、なぜ伝えたいことを分かりやすく、明確に、曖昧でなく、誠実に、正しく書かなかったのですか。「不可能なことは何もない」、「求めよ。そうすれば与えられる」などにあやふやな所は何もありません。しかし、完全に誤りです。それを説明してください。

キリスト教徒:あなたはまったくピント外れです。

 続く…

 たいていの人は、この会話で明らかになっている問題を理解できるだろう。全知全能で完全な神が「山を動かすことも出来る」、「不可能なことは何もない」、「求めよ。そうすれば与えられる」などという言葉を、それ以外の意味で書くべき理由などない。

 不幸にも、山を動かすことができる人など存在せず、この世に不可能なことは数多いというのが現実だ。イエス本人でさえ、山を動かさなかったのだ。実際、イエスの奇跡は検証可能な証拠を何も残していない。

・神の子とされているイエスは、マタイ福音書の5:44で「敵を愛し、あなたを苦しめる者のために祈れ」と言っている。しかしイエスはそれからマルコ福音書の16:16で、「洗礼を受けたものは救われるが、不信心者は地獄に落ちる」と言っている。なぜイエスは敵を愛さないのだろう。神学者ならこれを説明できるかもしれないが、その説明は詭弁以上のものにはなりえないだろう。

・なぜ聖書はアメリカの人口の半分を抹殺するように私たちに命令するのだろう。神学者なら説明できるだろう。詭弁以上のものにはならないだろうが。

・なぜ聖書の神は完全な性差別主義者で、奴隷制の支持者なのだろう。神学者なら説明できるだろう。詭弁以上のものにはならないだろうが。

・なぜ全能の神はキリスト教の聖職者でさえ意味がないと認めるような創造神話を聖書に入れたのだろう。神学者なら説明できるだろう。詭弁以上のものにはならないだろうが。

 聖書を普通の人間が正しく読むことが出来ず、「訓練された神学者」のみが神の言葉を解釈でき、聖書のいたるところに明らかな誤りが見つかる理由は、神が空想だからだ。神が現実の存在であり、実際に本を書いたのなら、その本は作者の圧倒的な知性で読者を感動させるようなものになっているはずだ。その本には誤りが何もないだろう。そしてそれを読めば誰でも畏敬の念に打たれるはずだ。「完全である」というのはそういう意味だ。
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