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神の不在証明40 キリスト教徒の動機

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神の不在証明40 キリスト教徒の動機

原文:http://godisimaginary.com/i40.htm

 神についてわかっている事はこれだけある。

・神の存在を示唆するような科学的証拠はない(証明11を参照)

・神が曖昧さのない祈り、例えば切断された手足が再生するように、というような祈りに応えることはない(証明9を参照)

・聖書は明らかに古代の人間が書いたものであり、全知の超自然的存在の作品ではない(証明13証明30を参照)

 言い換えると、神は明らかに空想の産物である。

 にもかかわらず、活動的なキリスト教徒と話をすると、彼らはこれらの証拠を完全に無視する。彼らは神は確かに存在し、そればかりか自分の祈りに毎日答えてくれるのだと明言するだろう。キリスト教徒の本や雑誌は、神が祈りに応えたという話で埋め尽くされている。キリスト教徒は神が天から地上に降りてきては、彼らが毎日のように行う合計数十億の祈りに応えているのだと信じているのだ。

 ここで疑問が生じる。神が空想の産物であることを示す証拠が多数あり、神は祈りに応えないことを示す確実で否定しがたい証拠が存在するにも関わらず、何故キリスト教徒は神が現実の存在であり、日常的に彼らの祈りに応えると主張するのだろう。


 言い換えると何が、彼らをして神が存在しないという証拠を無視するように仕向けているのだろう。可能性は5つある。

・キリスト教徒は死を恐れるがために、「応えられた祈り」が偶然の産物に過ぎないという事実を無視して、神が祈りに応えると信じることを選んでいる。証明27で述べたように、「天国」や「死後の生」が存在するという証拠はどこにもない。しかし、自分がいつか永遠に消滅するだろうという事実は、たいていの人間にとって非常に不安を掻き立てるものだ。この恐怖のために、彼らは永遠の生を与えるというイエスの約束にすがり、イエスの言葉が事実であることを示すような証拠を探そうとする。イエスは自分が祈りに応えるとも言っているので、証拠として一番手っ取り早いのは、祈りが応えられた例を見つけることだ。かくして、単なる偶然の出来事が、祈りをかなえるというイエスの言葉が事実である証拠とみなされるのだ。

・キリスト教徒は自分のエゴを満足させるために、「応えられた祈り」が偶然の産物に過ぎないという事実を無視して、神が祈りに応えると信じることを選んでいる。この説明は、キリスト教徒の間で奇跡というものが好まれる理由を示唆してくれる。想像しよう。あなたが癌になり、それが治るように神に祈った。そして手術と化学療法を受けた結果、癌は消え始めた。何によって治ったのだろう? 証拠に基づいて物を考えれば、手術と化学療法によってだ。神が癌を治してくれるものなら、そもそも手術や化学療法を受ける必要などなかったはずだ。しかし神が自分の病気を治してくれたというのは、キリスト教徒にとっては自尊心を大いに高める考え方だ。そのことは、神が自分の残りの人生に関する「大きな計画」を用意していることを意味するからだ。

・もっと軽い例で言うと、お気に入りのブラウスに付いた染みが消えるように神に祈ったとする。そしてブラウスを洗濯機にかけると、実際染みは消えた。もちろん洗剤の働きだ。しかしキリスト教徒は、この出来事を違ったように捉える。キリスト教徒にとってこれが何を意味するかというと、全能の宇宙の創造者が天から降りてきて、この自分の祈りを特に叶えてくれたことを意味するのだ。応えられなかった祈りについては「それは神の計画ではなかった」などと言って無視すればいい。神が個人的に自分の声を聞き、自分の願いをかなえてくれるという考えは、エゴを非常に満足させるものだ。そのことは自分が神から見て、特別な存在であることを意味する。もちろんそのような考えは、キリスト教徒が自尊心を高めるための幻想に過ぎないのだが。

・キリスト教徒は一人でいるのが怖いので、「応えられた祈り」が偶然の産物に過ぎないという事実を無視して、神が祈りに応えると信じることを選んでいる。彼らには自分の孤独を誤魔化すための見えない友人が必要であり、神というのは私たちの社会で是認されている見えない友人だ(訳注:目に見えない神に向かって語りかけるのはノーマルな行動とみなされるが、目に見えない妖精や、目に見えない妖怪に向かって語りかける人間は精神病院に入れるべきだとみなされる)。おそらく多くの人にとっては、見えない友人を作り出すことが、孤独に対処するための唯一の方法なのだろう。そしてその見えない友人は自分が何を願っているか理解していて、それをかなえてくれると考えるのは、たぶん心地よいことだ。

・私たちの脳には生まれたときから「全知全能の存在」という概念の居場所が確保されている。私たちが幼いときは、その存在は「親」と呼ばれる。子供は本能的に親との絆を形成するものだ。それはいいのだが、多くの人がこの段階を卒業することが出来ず、親離れした後も全知全能の存在を求めているとしたらどうなるだろう。言い換えると、「全知全能の存在」のために用意されている脳内のスペースは、その本来の役目を終えたあと何に使われるのだろう。人々がこのスペースに何かが入っていないと不安になるとすれば、入れるべきものは何なのだろう。「全知全能の見えない友人」は、このスペースを満たすのにうってつけではないだろうか。さらにこの想像上の友人が祈りに応えると考えれば、もっと心に平安がもたらされるだろう。

・キリスト教徒は教会で注目を浴びたいがために、「応えられた祈り」が偶然の産物に過ぎないという事実を無視して、神が祈りに応えると信じることを選んでいる。キリスト教徒が応えられた祈りについて話すのを聞くと、「応えられた祈り」がどのように生み出されるのかを理解できる。まず一人のキリスト教徒が会話の火付け役になる。「私の犬がひどい皮膚炎になったので獣医に見せました。獣医は薬をくれたんですが、効きませんでした。しかし私が神に祈ると、4日後には炎症が治まりました、神に感謝を」。さてここから、相手より上の立場に立ちたいという感情が生まれる。もう一人がこれに答えてこんな話を始めるのだ。「私は休暇を計画していたんですが、そのためのお金のあてがありませんでした。そこで私は神に祈りました。するとまさにその日、クレジットカードの審査が通ったのです。そしてその限度額は、私が休暇で使う予定の額とぴったりでした。神に感謝を」。このような環境では、祈りが応えられた経験のない人は不安になってくる。それは神が自分に好意を持っていないことを意味するからだ。そのため彼らは、小さな出来事を大げさに言ったり、あるいはでっち上げたりして、自分は神に見捨てられていないとアピールしようとする。

 これは神が空想であることを示す直接の証拠ではない。しかしキリスト教徒には自分自身を欺く強い動機があることは示している。キリスト教徒ー特に教会に所属している人々ーには、祈りについての話をでっち上げたり、「応えられた祈り」が単なる偶然であることを示す証拠を無視したりする強い動機があるのだ。「応えられた祈り」がキリスト教徒のコミュニティーに氾濫しているのは、これらの動機によるものだとすれば納得がいく。

管理人コメント
 管理人的には、キリスト教徒が神を信じるのは、ここで挙げられているような理由からではないと思う。キリスト教徒でもない管理人が言うのもあれだけどね。管理人が考える理由については、まあ気が向いたら雑記のところに書く予定。
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